No more cry

□commencement(開始)
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 ……ちょっと私のこれまでの人生を回想させてもらえないだろうか。いや、そんなに大したものでは無いのだけれど。たかだか四半世紀程度の話なのだけれど。



 私の名前はあやめ。
 中学校の教師を目指しているしがない教師の卵だ。
 世間一般の多くの人と違うところは孤児院に引き取られて育ったことだろう。血は繋がっていなくとも、誇るべき家族を得たし、そう悲観することもなかろうと思っている。うん。


 教育実習生としての初日を終えた私は、久しぶりに施設に帰ってきていた。
 出迎えてくれたのは冬哉。義理の弟。近くの定時制高校4年目ともなって、少し見ない間にずいぶん大人びていた。

「お帰り、あやめねぇちゃん」
「ん!ただいま!」

 昔からの癖でよしよしと頭をなでると、冬哉は苦笑いする。
 曰く、施設の大人たちは大人扱いしてくれるのに、私だけが変わらないのがほっとする自分に思わず笑ってしまうらしい。
 思わぬ告白にお互い噴出して、たわいもない話をしながら向かった先は院長室。

「あらぁ、早かったのねぇ」

 会いたかった人とはその手前の廊下で鉢合わせた。りんちゃんだ。
 すっかり貫禄のついた彼女は今年中学2年生になる息子と小学4年生の娘がいるお母さん。この施設のお母さんでもある。チャームポイントはそのふわっとした笑顔。
 私はにっこり笑ってりんちゃんに抱きついた。

「ただいま、りんちゃーん!」
「うふふ、お帰りなさい、あやめちゃーん」

 お茶目なところは変わってない。

「しっかし、スーツ着てるとねぇちゃんもちゃんと社会人なんだなー。アイタ!」

 失礼な冬哉に小さく肘鉄をくらわせつつ、私はりんちゃんの楽しそうな声を聞いた。

「うふふ、あのあやめちゃんがホントに中学校の先生になるのねぇ」
「『あの』あやめちゃんってどういう意味かなぁ?りんちゃんおかーさぁーん!」

 いささか傷付いて睨むと、りんちゃんは朗らかに笑う。

「5教科はてんでできないのに、実技科目は完璧な、お手伝い上手のあやめちゃんよぅ」

 ぐぅの音も出ませんよえぇ。

 院長室に辿り着いて、私は入って右手の仏壇に腰をおろした。

「久しぶり、カンナ。教育実習生だよー! 私あとちょっとで先生になれるの!」

 遺影の中の儚げな笑みに笑いかけて線香をあげる。

「りんちゃん、小夏ちゃんも真くんと同じ中学校?」

 少し振り返って尋ねると、りんちゃんは給湯室からのんびりと肯定した。

「じゃあ小夏ちゃんもカンナの後輩だね。うふふ、こなっちゃん可愛いんだよカンナ。勿論私にはカンナが一番だけどね!」
「ねぇちゃんホントカンナねぇ至上主義のまんまなのなー」

 冬哉の呆れ声なんて聞こえない聞こえなーい。

「でもほんとによかったの?あやめちゃん」
「何がー?」

 仏壇から離れて、りんちゃんから湯呑を受け取る。ソファー並んで座った冬哉が肩を竦めた。

「日向先生と山吹先生が俺の高校に来てさ」
「へぇ、冬哉のトコに」
「んで、日向先生はあやめはデザイナーにならないのか、山吹先生は歌で食っていかないのかってさ」
「やだなー、ふたりとも冗談上手いんだからー」
「まぁ笑ってたけどな、ふたりとも。あやめは現実的過ぎて可愛くなかったって」
「ホント2人とも言いたい放題だな?!」

 そんなふうにお互いの近況報告をしていると、誠也くんが帰ってきた。りんちゃんの旦那さんで、私たちのお父さんみたいな人だ。

「おー帰ってきたなあやめ」
「ただいまー!」


 夕食を皆で囲んでから、あやめは自室に引っ込んだ。カンナと一緒に使っていた部屋だ。
 大人になった今はそうでもないが、カンナがいなくなった当初は、この部屋が広く感じてしょうがなかった。
 あやめが11の夏に死んでしまった義理の姉は、そのころのあやめの世界そのものだったから。

「あと一息だから頑張るよ、カンナ」

 よい報告ができることにこそばゆさを覚えながら呼びかけて、あやめはカンナの使っていた椅子に手を触れた。
 冷たい感触に掌が冷えてしまう前に、あやめは明日の下準備に取り掛かることにする。

 明日からもう授業をさせてもらえるのだ。
 授業行程を考えるのは難しくもなかなかに楽しくて、時間はあっという間に過ぎてしまった。

 ふと我に返って時計は11時を少し回っている。

 小さくノックが聞こえて返事をすると、そこにはあやめの予想通りりん子がいた。

「私達はもうお休みするわねぇ、あやめちゃん」
「はあい、お母さん。おやすみなさい」
「おやすみなさい、あやめちゃん」
「おやすみ、こなっちゃん」

 ひょこっと首を出してきた小夏にも手を振り、閉まるドアを見届ける。
 遠ざかる靴音に耳を傾け、あやめはぐっと背伸びをした。彼女の耳にカタリ、と音が聞こえたのはその時だった。

「あ、れ?」

 右手の壁にある本棚で、本が小さく傾いているのが見えた。見覚えのない薄い表紙に首を傾げ、手に取るために伸ばした指が本の背に触れた。その瞬間。くらりと眩暈がして、あやめは動きを止めた。
 立ちくらみかと考えた彼女をあざ笑うように、くらくらと酩酊するような感覚は強くなるばかり。
 耐えきれずに床に蹲ったあやめは、そのまま意識を失ったのだった。


 
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