おとなりさん。

□6杯目
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「ゴキブリ出たの?」
「うん」
「大丈夫だった?」
「大丈夫。赤司君いたし」
「ふーん……」
姉貴の嫌いな物は、雷とお化けと虫。一人の時に襲いかかってきたら、泣きまくるか、腰が抜けて二、三日鬱になる。そこまで考えて、俺はあることに気が付いた。
「え、ちょ、待て。赤司?」
「うん。赤司君ご在宅だったから、一晩一緒にいてもらった」
「一晩?姉貴が?」
「うん」
「……まじか」
姉貴は申し訳なさそうな、何ともいえない顔をした。
「まあ、何年か経つし、……ちょっとは克服してきたんだろうな」
「うん、ちょっとね」
約40cmも下の世界を見つめる姉貴は、俺よりだいぶ大人だ。「さ、コーヒー淹れよ?」
×××
翌日、お礼の煎餅を持って赤司を訪ねると、奴は二日酔いと低血圧ですこぶる気分が悪そうだった。世話好きの姉貴が放っておく訳がなく、赤司宅のキッチンで残り物の鰆をポワレにしていた。本格派鰆茶漬けの完成だ。
「お前、風邪引いてんじゃね」
髪に劣らない真っ赤に染まった頬と何より気だるげなその雰囲気が物語っている。
「大丈夫ですよ、今日は休み……」
「……ちっ。姉貴、こいつどうする」
「ソファーに寝かせてあげて。ベッドまで行くのつらいでしょ」姉貴は塩昆布茶を沸かしている。「清志も体弱かったもんねー。慣れるよ、そりゃ」
「宮地さん、体弱いんですか」
「そりゃもう。花粉症は酷いし、喘息持ってたし、アレルギーはあるし、風邪なんてしょっちゅうだったよ。そのくせ注射が嫌いで、インフルエンザとかかかりっぱなしなの」
「お母さんみたいですね」
「まあ、大体合ってるね」
姉貴はけらけらと笑い、茶碗をテーブルに置いた。「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
余った塩昆布茶を湯呑みに注ぎ、煎餅を開ける。あげるはずだったお菓子は、俺の胃袋に吸い込まれていく。羨ましそうな目をする姉貴に、ザラメの煎餅を渡した。赤司は黙々と鰆茶漬けを消費している。
「赤司さ」
「……何ですか」
「あれさ、姉貴がお前んとこ行ったの?」
塩昆布茶を注ぎ足しながら、赤司に尋ねる。
「玄関開けたら、いました。泣いてました」
「で?」
「部屋にお邪魔して、ゴキブリを抹殺しました」
「俺の部屋は?」
「入ってないです」
なら良い。グッズだらけの部屋にあいつを入れたら、絶対に高尾に伝わる。赤司と高尾は大学が一緒で、緑間もいる。赤司→緑間→高尾。
「ありがと」
「はい。……ごちそうさまでした」
「お粗末様。お茶碗いいよ、貸して」
「すみません、本当……」
「隣人愛よ、隣人愛。清志、部屋連れてってあげて」
「んー。ほら、立てるか」
幾分か回復したらしい赤司を部屋に運んでやる。部屋を出ると入れ替わりに姉貴が入っていった。
そういえば、一晩って、どこで過ごしたのだろうか。姉貴は俺さえも部屋に入れない。ましてや他の男なんて。
その後のことは、あんま覚えてねぇ。
×××
「赤司君って、いい人」
「はぁ?」
「いい人だよ。誰かさんとは大違い」
一瞬、俺のことかと思ったけど、そうじゃなかった。姉貴はあいつのことを言ったんだ。
姉貴がバイトし始めたのが、俺が中三の時。大学を中退したのが大学一年生の時。正式に就職したのが二年の時。
俺達が二人暮らしを始めたのが、俺が高三、姉貴は大学一年生の時。始めた、じゃない。追い込まれた、だ。逃げてきたのだ。
姉貴は俺の気持ちなど知らず、無邪気に笑っていた。

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