おとなりさん。

□5杯目
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清志が泊まりで出かけているので、今日は一人。お店も水曜日の定休日だから、一日フリーだった。夜ご飯のお皿を片付けようとキッチンの蛇口を捻る。
排水溝に水が流れる。そういえば、明日は生ゴミと可燃ゴミの日。ゴミ袋を回収しようと、キッチンにあるゴミ箱を開けた。
と、中から出てきたのは、黒い何か。もぞもぞと動いた後、床をすばしっこく這いつくばった。
もしかしなくても、これは。
「いやぁぁあっ!?」
×××
涙声の杏奈さんが玄関先に立っているのを見た時は、自分の目を疑った。虫が怖くて一人になるのが嫌だなんて、可愛いではないか。
泣きじゃくる杏奈さんをとりあえず宥める。その虫とやらを退治しない限り、杏奈さんは家に入れない。スプレーを持って自宅に鍵をかけ、宮地宅に乗り込む。宮地さん(兄)はいないとのことだった。
話を聞く限り、ゴキブリが一匹。キッチンにいたらしい。ソファーに座らせてもらい、奴が出てくるのを待つ。
ところで、今回はゴキブリ退治という目的があったからいいものの、そうでなかったら僕の理生は崩壊していたかもしれない。男なんてそんなもんだ。僕だって例外じゃない。
「赤司君は、虫、大丈夫なの?」
「ええ。無理だったら退治に来ません」
「ごめんね、忙しかった?」
「そんな、大丈夫です」
ようやく涙が治まった杏奈さんが立ち上がる。
「せっかくだから、コーヒー飲む?」
「ああ、ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
キッチンに向かった杏奈さんの背中を見送り、一息つく。
柔らかい色の電気に、木のテーブルが照らされている。座っているソファーのカバーはビタミンカラーの模様が施されている。ピンク色のきゃぴきゃぴした感じとは違う、ほんわかした可愛らしさがある。
部屋に見とれていると、ガシャン、と何かが割れる音がした。次いで、杏奈さんが悲鳴をあげながら後ずさりしている。
「杏奈さん?」
「あかっ、し、……くん」
向かってみれば、いた、いた。ゴキブリ。そばで水色のマグカップが粉々に割れている。
とりあえずスプレーを噴射する。ひっくり返って悶えるゴキブリを見て、また杏奈さんは声をあげた。完全に動かなくなった所でティッシュで包み、玄関から外に投げ捨てた。
部屋に戻ると、杏奈さんは、へたり込んでいた。
「もう、捨てましたよ」
「あ、う……」
「大丈夫ですか?」
桃井といい、虫が苦手でない女性というのは、もしかしたら本当に少ないのではないだろうか。腰が抜けてしまった杏奈さんに手を貸して立たせてあげる。
「あかし、くん」
ふらっと倒れ込んできた杏奈さんを慌てて受け止める。鎖骨の辺りに、ちょうど彼女の額がある。今日は下ろしている髪が、僕の腕に当たる。
「ちょ、杏奈さん」
「……ん」
「大丈夫ですか」
「無理、怖い」
「もう、退治しましたよ?」
「……一人にしないで」
瞬間、全身の熱が顔に集中した。手が震える。一瞬だけどくらっとした。
「……ごめんね、うう、赤司君」
杏奈さんは泣いているらしかった。小刻みに振動を続ける手で、腰を引き寄せ、髪を撫でた。恋愛処女の僕にこれは、大分刺激が強かったようだ。
  割れたマグカップ、どうしよう。

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