終わりのセラフ

□calling
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「ねね、優ちゃんて、もしかして…ファーストキス?」
今泣いた烏がなんとやら。
肩を激しく揺すぶられるがままにまかせ、優一郎はがっくりと項垂れた。
いつの間にやら完全にミカエラのペースである。

「…ミカはどうなんだよ」
「聞き返すって事はそうなんだね?」
ずいっと顔を近寄せて来る幼馴染みに、優一郎は憮然とした面持ちでそっぽを向いた。
「るせぇ、どうせ俺はお前と違ってモテねぇよ」
「うーん、優ちゃんは鈍感だからなぁ。好意を寄せてくれてる女の子がいたとしても全然気付かなそうだよね」
おかげで悪い虫がついてなさそうで良かったけど、という最後のつぶやきは優一郎の耳に届いていない。
「いねぇよ、そんな物好きなやつなんて。…で?誤魔化そうったってそうはいかねぇぞ?お前はあんのかよ」
「え?」
「キスだよ」
「えぇ…とぉ…」
まさかの切り返しにミカエラの視線が泳ぐ。
「…あるんだな?」
チリリと胸の内を焦がす痛みに、優一郎は顔を顰めた。
これは覚えのある感情だ。
そう。廃墟みたいな家で身を寄せ合って暮らしていたあの頃、ミカエラが貴族の屋敷へと通っていると知った時の、醜くドロドロとした昏い感情。
銀髪を靡かせて地下都市を闊歩する妖艶な吸血鬼の微笑が脳裏をよぎった。

「……優ちゃん?」
立ち昇る不穏な気配を察して碧玉が揺れる。
「あのさ、もしかして優ちゃん…激しく誤解してない?」
「なにがだよ」
ぷいっと音でも聞こえそうな程の勢いで逸らされた視線を捕らえるべく、ミカエラは黒い頭を両手でがしっと抑えて強引に緑柱石を覗き込む。
「ああもぅ!っていうか、なんで僕の夢なのにちっとも思い通りにならないわけ?物凄く納得が行かないんだけど」
憎々しげな口調とは裏腹に、その顔にはこんなやり取りすら愛おしいと言わんばかりの笑みが刻まれている。
「はぁ?これは俺の夢だろ!ミカはゲスト出演!いや、友情出演!」
「なにそれ!優ちゃんが僕の夢に出てきてるんじゃない」
「……あほらし。もうやめようぜ」
優一郎は身を捩って拘束から逃れると、寝台に寝転んで天井を見上げた。
釣り上がった眉は不機嫌オーラ全開である。
ミカエラは観念したように短く嘆息すると、優一郎の傍らへ両肘を付いて幸せそうに微笑んだ。

「……優ちゃん、だよ」

言葉の意味がわからず眉根を寄せて小首を傾げる相手の様子を眺め、ミカエラはほんのりと頬を染める。

「僕の、初めてのキスは優ちゃんだよ」


「……へ?」
想像を絶するまさかの告白に、優一郎の脳は完全なフリーズ状態である。なんとも間抜けな声が出てしまったのは仕方のない事だと言えよう。

「百夜の家ではいつも隣に寝てたでしょ?優ちゃんは寝ると朝まで爆睡だもんね。そりゃ気が付いてるとは思ってなかったけど…」

………。

絡む視線に胸の内をくすぐられるようなこそばゆい感覚に、ふたりは同時にぷっと噴き出した。
ミカエラはくすくすと笑いながら寝台に寝転ぶと、横に置かれた優一郎の手を取って己の指を絡める。
言葉にならない充足感が繋いだ指先から全身へ膨れ上がっていくようだ。
繋いだままの掌からは境界線が消え、どこからが自分でどこからが相手なのかもわからない程にひとつだった。

「――僕は、優ちゃんが好き。家族としてだけじゃなく、たったひとりの特別な人として、ずっとずっと好きだった」

揺るがない瞳と真剣な声音が、逃げる事もはぐらかす事も許さないとばかりに魂ごとその場に縫い止める。

「ねぇ、優ちゃんは?…僕の事、好き?」
耳を甘く震わせるテノールが、優一郎の頬に熱を集めていく。
頭の中も胸の中もざわついて、言葉が上手く出て来ないもどかしさが重い沈黙を作り上げる。


「――毎晩お前の夢ばっかみてた」

置き忘れた想い出を捜すように緑柱石の瞳が宙を彷徨った。

「何年…経っても、忘れる事なんて出来なくて…。ずっと……ずっとミカに会いたくて、馬鹿みたいに…毎日…お前の事ばっか、考えてた」
ぽつりぽつりと紡がれる音にミカエラは耳をそばだてた。
ひとことも聞き逃す事が無いように、息を潜めて続く言葉を待つ。

「って言うか、嫌いなヤツにキッ…キスとか、普通しないだろっ!」
「…じゃあ、好き?」
相手の反応をうかがうようにチラリと上目遣いで見上げる。
長い付き合いなのだ。少しむくれた顔と荒らげた声が単なる照れ隠しに過ぎない事は解っている。
解っていても言葉が欲しい時もある。
どんな飾った言葉より、たったひとことが欲しい時がある。
「ねぇ優ちゃん…お願い…」
ねだるように薄く開いた唇から小さな牙を覗かせ、必死の表情でぐいぐいと袖を引っ張る様子はまるでじゃれつく仔猫そのものだ。
そういえばミカの『お願い』には昔っから勝てた試しがなかった。

それならば、もはや全ては無駄な抵抗でしかない。

「…んな泣きそうな顔すんなよ、ばーか。…好きに決まってんだろ。そんなの、言わなくてもわかれよ」

自分の中の何処からこんな甘ったるい声が出るのだろう。

金色の頭を引き寄せ、そっと唇を重ねる。
触れるだけの口付けがちゅっと小さな音を立てて離れると、優一郎は顔を真っ赤に染め上げ、もう限界だとばかりに勢いよく身体を反転させた。

「なにそれ。優ちゃんずるいよ。なんでそんなに可愛いの?…責任、とってよ…!」

ミカエラは優一郎の肩をぐいっと掴んで強引に仰向かせると、身体の上に覆いかぶさるようにして口付けた。

「……っ!」
「優ちゃん…っ、好き…」

鼓動が走る。
吐息が絡まる。
身体が熱くなる。

長いキスで紅く熟れた唇に牙を押し当て引っ掻くようにカリリと食めば、緋色の甘い液体がじわりと滲んだ。
ミカエラは恍惚とした表情で優一郎の唇をぺろりと舐めとり、再び深く口付ける。
角度を変えて何度も何度も貪るように求め、酸素を求めて開いた唇に舌を滑り込ませて歯列を割った。
「んんんっ!?ばっ!ミカっ、舌入れんな!」
「はぁ?何言ってんの今更!入れます!これからはさんざん、エロい事もします!」
「な…っ!?」
呆気に取られて微動だに出来ない優一郎に人差し指をびしりと突きつけると、ミカエラは畳み掛けるようにして言い募った。
「ずーっと好きで、やっと想いが通じたんだよ?我慢出来るわけないし、するつもりもないからね!そ・れ・に、優ちゃんがエロい顔で誘ったんだから、優ちゃんにだって責任あるんだよ?はふはふほっぺた紅くしながら涙目で抗議とか、優ちゃんはどれだけ僕を惑わせれば気が済むわけ?」
なんだか物凄く理不尽な事を言われているような気がするのだが、いかんせんまだ頭の芯がぼんやりとけぶっている状態にプラスして馬乗りになられている不利な現状では対抗出来るはずも無い。
「お、落ち着けミカ!お前顔が怖いぞっ!?」
「生まれつきこの顔だよ!……まったくもぅ、ムードないんだから…お仕置き!」
ミカエラは優一郎の首筋に顔を埋めると、唇を窄めて皮膚をきゅっと吸い上げた。
「んっ…!」
濡れた熱い舌が首を這う初めての感覚に、優一郎は反射的にギュッと目を瞑った。
肌がざらりと粟立ち、知らずうちに甘い息が漏れる。
「…しょうがないから今日のところはこれで勘弁してあげる。続きはまた今度ね?」
首筋に散った紅い花弁を指先でつつくと、ミカエラは満足気に微笑んだ。
ふわりと、花開くように艶やかな笑顔に視線が奪われた刹那…


ふ、と。

優一郎の視界が揺れた。


聞き慣れた耳障りな電子音が朝の来訪を告げる。

「優ちゃ…?どう…か…し………?」

ミカの声がノイズにまみれ、途切れる。

『……ミカっ!』

叫んだ声は音にならず、ふわふわとした意識が急速に引き上げられる。


部屋に響くアラームを止める事なく、優一郎はベッドに仰臥したままぼんやりと天井を眺めた。

「………朝、か」

ふたりで寄り添っていた窮屈な寝台が、今はやけに広く寒々しく感じる。
ついさっきまですぐ傍らにあった温もりを繋ぎ留めるように、優一郎は自分の身体をぎゅっと抱き締めた。
「ミカ…」

ひとりが寂しいわけじゃない。
傍にいて欲しい人の不在が、孤独を感じさせるんだ。

「―――やべぇ、泣きそう」


部屋中にミカが散らかってる。


痛いのか熱いのかも解らないまま、優一郎は胸をぎゅっと押さえた。








「…………優ちゃん……」


目が覚めればやっぱりひとりで。


声も体温も息遣いも腕の強さも、まだ身体中に残っているのに。

「…だから夢は嫌いなんだ」

人は、過去の記憶だけで生きる事が出来るのだろうか。
思い出だけで生きる事が出来るのだろうか。

「……あ、ははっ、そっか。僕は人ではなかったんだっけ」

己のものとは思えぬ程に乾いた笑い声が鼓膜を揺らす不快さに眉を顰め、ぎりっと唇を噛み締めた。


…優ちゃん。

夢を夢のまま終わらせたりしない。

「待ってて。…必ず、きみを……」

決意を秘めた呟きは誰にも届く事なく、冷たい床に吸い込まれて消えていった。





「おはよう、優くん!よく眠れた?」

名前を呼ばれて視線を巡らせると、茶色い髪をふわふわ上下させながら見知った顔がにこにこと小走りに駆け寄って来る。
「おっす与一。そう言うお前は?しっかり寝たのか?」
「うん!昨夜は久し振りに夢も見ないで朝までぐっすりだったんだよ」
俺、与一、君月の3人は鬼呪装備取得の日から悪夢に悩まされる事が多く、睡眠時の情報交換は毎朝の習慣になりつつあった。

「――早く夜になんねーかな…」
またあの夢の続きが見られるだろうか。あの16歳のミカにもう一度会う事が叶うだろうか。
見上げた空は嫌になるくらいに太陽が眩しい。
「朝になったばっかだぞ、寝ぼけてんのか馬鹿優」
優一郎はやや上の方から降ってくる嘲り声に振り向くと、頭ひとつ高い視点にある眼鏡の奥をぎりっと睨みつけた。
「るせー!この電柱!俺の後ろに立つんじゃねぇ!殺すぞ!」
「上等じゃねぇか、勝負すんなら受けて立つぞカス!」
がうがうと噛み付かんばかりに吠え合いながら隣を見やれば、与一の視線が食い入るように自分に固定されている事に気付く。

「なんだよ与一、じっとみて。もしかしてまた寝癖でもついてっか?」
幾度か前科があるだけに、優一郎はハネの付きやすい黒髪をぐいぐいと手で撫で付けた。
「優くん、首のとこ虫に刺されたみたいだから薬塗っておいた方がいいかもよ?」
「へ?…虫?」
「うん、ここんところ赤くなってる」
与一の指し示す場所に反射的に手を伸ばすと、優一郎はぴたりとその動きを止めた。

「………」

「優くん?大丈夫?もしかして具合でも悪い?」
与一は固まったまま微動だにしない友人の横顔を心配そうに覗き込んだ。

「いや…大丈夫だ、なんでもねぇよ」



……まさか………だよなぁ…。

けど……。


――――何故だか胸が騒ぐ。

「おら、馬鹿優!さっさと行くぞ。今日は壁の外に出るんだからシャキッとしろよ」
「るせーな、わかってるっつーの!」
優一郎はがりがりと髪を掻き上げると、隊を組んでから初となる任務の説明を受けるべく先を急ぐ友人達の方へと爪先を向けた。

「…新宿、か……」

どこまでも突き抜けるような青空が昨夜の記憶を蘇らせる。
瞼の裏に焼き付けた碧に面影を描くように、優一郎はそっと目を閉じた。



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