アルデバラン
□雪
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遥かな
青い空 青い海原 ちぎれた雲
白昼夢の砂浜に
榕樹に凭れ微笑むお前
星を求めて
夜の天空をさまよった
俺たちの昨日は何処へ
「海里、旅行、せえへん?」
出掛ける前の朝食の時間を、いつも信貴は比較的のんびり過ごしているが、今も、ええ天気やな、と言うような間延びした調子で、全体にぼうっと笑みを浮かべながらそう言った。
出会って数ヶ月の信貴はお人好しで疑うことを知らず、真綿のような優しさで俺を苛む。
彼のせいでないことは百も承知だが。
「旅行?」
俺の声の微かな毒に気づいてくれれば。唇の笑みでなく目尻の無為を認めてくれれば。
俺はもっと楽になれるだろうに。
「一泊か…海里がええんやったら二泊でも…」
「どこに」
「金沢なんかどうや?兼六園とか」
「金沢……雪…」
「きれいやで。雪、見たいって言うてたやろ?」
それは、出会ったばかりのある朝、テレビ画面に映し出された三月の大雪のニュースに、俺が何気なく呟いた言葉ひとつ。
横に眠る彼が聞いていることすら思いも寄らなかった独り言。
…雪か…一度も見たことない…
ただ、そう呟いただけの。
「よく…覚えてたな」
「俺、記憶力ええから。…お前の言うたことやったらまあ…ほぼ全部、覚えてるわ」
「“ほんまかな”…」
信貴の口癖…慎ましくも嬉しげな物言いの…それを真似てみたら、心も彼に近づけるだろうか?
「ほんまや。全部覚えてる…」
出会って数ヶ月で俺はきっと、島に置いてきた日々の、真昼の街で、夕陽の浜で、榕樹の陰で、嵐の中で、あのひりひりと焼けるような恋心にまかせて落とした言葉よりずっと多くの些細な言葉を信貴に聞かせてきたんだろう。
「なら、俺のことなんか、何もかも全部お見通しだろうな。薄っぺらな人間だから」
捨ててきたはずの思いに、ゆらゆらと立ち戻っては立ち尽くす所在なさも。
記憶の影を引きずりながら、なすすべなく冷えてゆく心を持て余すばかりの寂しさも。
そうして大切な何かを失い続けていることを知りつつ、この心をお前に委ねきれない俺の愚かさも。
何もかも。全部。
「まあ…けっこうな…理解してる、つもりやけど」
テーブル越しに、静かに柔らかに伸びてきた腕。
信貴の手のひらがそっと俺の頬に、髪に、触れた。
見つめる瞳は、優しさ、温もり、慈しみ、俺には身に余る幸せのすべてを湛えて、微笑んでいる。
望めば手に入る、のか?
望んで…かまわないのか?
「…旅行、行ってもいい。雪…見に行ってもいい。信貴が…」
「良かった…!」
「…信貴が、かまわないんなら」
「かまわないんならって、俺が誘ってんのに」
可笑しそうに。そしてふと、気遣わしげに。
「…俺はお前と一緒にいたいねんで?」
「うん…」
一緒にいれたらそれでいいのだと、その目が語る。
「…お前は…?お前も…」
「…うん…」
「俺と…」
ああ、今。
今、言わなければ。たとえ、身に余る幸せでも、今、望まなければ。彼に心を預けなければ。俺はもう、寂しすぎて一人で生きていくことなんかできないのだから。
…いや、そうではなく…。俺は、彼を、愛しているのだから。
「俺と一緒に…いたいん?」
「多分…」
ああ、これが俺の情けない精一杯だ。信貴よ、ほんとうに、かまわないのか?
「良かった…海里…嬉しいわ」
ずっと俺の頬や髪を柔らかく撫でていた手が俺の後頭を押さえ、唇にキスがきた。
「…信貴…」
信貴のキスはいつも優しくて甘くてため息が出る。頭の芯がぼうっとなって腹の底が熱くなる。
「…信貴…いいのか?こんなんで…」
「…海里…俺はプロポーズを承諾してもらえたような気分やで…」
ちょっと黙って…
このままキス、
続けさせといてや…
信貴のキスと囁きが俺の心と体を溶かしていった。
いつか
海風の青い空でなく
雪の降りしきる曇天を
愛しく思い出すのだろうか
彼の微笑みとともに
end
2013.12.06