碧に染まって
□変わらないもの
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「本当に食べなくていいのか」
『うん。変わらずお腹は減らないんだ』
ホテルのルームサービスを使い食事を摂っていた。と言っても勿論私ではない。
少年は私の答えに特に驚かない。教会にいた頃から私は食べていなかったからな。それが分かっていても聞いたのは一応、だろう。確認、かもしれない。
「ずっと食べてないのか?」
『…"一口も"とは言えないかな。でも食事のようなことはしていないよ。ただ、飲み物に関しては飲んだりするかな…でも、』
「…でも?」
『別に喉が乾くからじゃないんだ。強いていうなら…雰囲気かな』
今もこうして食事を摂る少年の前でカップを持っていた。中には黄色い液体。レモンティーの筈だ。形だけでも飲み物だけでも、一緒に摂ると食事をしている気になる。
「それでも味覚はあるんだろ?」
『無いよ』
言えばクロロ少年の目が少し見開かれる。それは驚きと、疑問。
『言いたいことは分かる。…無くなったのは最近なんだ。だから教会に居た頃はちゃんとあったよ』
あのとき食べた肉の味はしっかり覚えている。
味覚の消失。
久しぶりに、執事さんが入れてくれた紅茶を飲んだときに気づいた。……気づいたというよりかは確信を持った、と言うべきか。
思えば少し前から飲み物の味が薄いと感じていた。普段と何も変わらない入れ方の筈なのに。
…味覚が無くなったと気づいてもそれほどの衝撃はない。今更、というやつだった。それに、味覚は無くなっても感覚はちゃんとある。温度も感じられる。痛みはないけれど、刺激はある。
それに、失って特に困るものじゃない。私には食事が必要無いんだから、味わう意味もない。……だからこそ失ったのかもしれない。
『この頃、暫く口に何も入れてなかったんだ。だから多分…忘れてしまったんだと思う』
向こうの記憶を忘れるのと同じように。
「そうか」
『うん』
少年はサンドイッチを食べていた。見る分には美味しそうだと感じる。食べたいとは思わない。私は手元のカップを口に寄せる。…失って問題ないとはいっても、無味、というのはまだ慣れない。水とも違う。ただ、温かいものが舌に乗って喉を通りすぎていく感覚だけ。……その内温度も無くなったらどうしようか。温感が無くなるのは流石に困る気がする。
「他には」
『え?』
言葉の意図が分からず首を傾げる。
「オレが知らないノアのこと。全部話して」
クロロ少年の真っ黒な瞳と合わせて、きょとんとした表情を戻す。…有無を言わせない目。私が知るものよりも遥かに強く、冷たくなっていた。……少年は教会での私しか知らない。教会の時にも少年が知らないことはあった。それに加えて、だ。…あまりにも多い。
『そうだなぁ……味覚の他に痛覚もないよ。痛覚は最初から無かった』
「最初から……なら、あのときも痛みはなかったのか」
『あのとき…?……ああ、懐かしいね。うん、痛みは感じなかったと思う。…感じてたら流石に叫んでただろうから』
あのとき、というのはきっと私の肩にナイフが刺さった時のことだろう。それ以外に少年の前で怪我をした事はないはずだ。
正直、あのときナイフを刺されたことよりも少年たちに気を張っていたので確実とはいえないが。…それでも、流石に肩にナイフが刺さったら痛みで叫ぶと思う。そこまでの大怪我の経験はないし。まぁ…アドレナリン、という線も否めないけど。
『それと……』
刃物…なんてものは部屋にはない。私は左の人差し指の先にオーラを集める。薄く伸ばして、けれど濃度は濃く。"周"のようなものだ。
それから右手を開いて、その掌に一本線を引く。…こうやって、実践して見せるのも何度目だろう。線は確かに引かれるが血が出る前に消えた。
『身体に傷がつかない。正確に言えば傷がついた後一瞬で治る。血管が切れたとしても毛細血管、静脈の類いなら血が溢れる前に再生する。動脈や血管が多く集まる場所だと再生よりも血の飛び出す速さの方が上回ってしまうけれど、再生は問題なく行われる。だから超速再生…とはいかないかな。高速、くらいだと思う』
未だに仕組みも理由も分かっていない。けれど解析は大体済んでいた。
速さの他に、順番もある。内側から…内臓面から再生していく。そうでないと血が飛び出しても回復する説明がつかない。飛び出した血は切れた肉、皮膚を通って外へ出る。もし外側から再生するなら…皮膚を再生する際に血液が邪魔になる。
…少年に驚いた様子はない。……まるで、知っていた、とでも言うような雰囲気。
「……よかった」
安堵したように少年は息をつく。それが何に対してなのか、どういう意味なのか分からず私は首を傾げる。するとクロロ少年はふっと笑った。
「痛みが無いってことは、例え怪我をしたとしても苦しまないってことだ」
『それは…そうだね』
痛みが無いんだから苦しむことはないだろう。勿論精神的なものは抜いて、だが。しかし、それがどうして少年の"よかった"に繋がるのか。
「大切な人の苦しむ顔なんて見たくない」
『!』
「それに…傷も直ぐ治るなんて、こんなに嬉しいことはないだろ?」
私は目を見開いた。
そう返されるとは思っていなかった。
…少年は本当に嬉しそうに安心したような笑みを浮かべている。
そこに嘘はない。偽りもない。
…その真っ直ぐな想いは懐かしい。
『………甘い』
「え、?」
心で言ったつもりが、口に出てしまったらしい。
…味はしない筈なのに口のなかが甘かった。それは砂糖とも果実ともちがう、柔らかいほのかな甘味。
……いつの間にこんなにも私の心は荒んでしまっていたのか……そう思ってしまうくらいの途方もない"嬉しさ"に包まれていた。……見た目は変わっても彼はあのときと変わっていない。
…クロロ少年は、クロロ少年だ。
理解はしている。でも、理解はしていても心のどこかではまだ疑っていたんだろう。それは彼が少年であるかどうかではなくて、私に対する感情。印象。
あのときは大人と子供…もっと言えば親と子のような関係だった。親…なんて大それたことを言うのもあれだが……それでも少年にとってはそれに近しい存在であったと思う。少なくとも"先生"くらいではあったと思う。…完全なる自惚れだが、外れてもいないだろう。
だからこうして大人になった少年を目の前にして………微かに戸惑った。私は以前と同様の感情だが少年にとっては違うかもしれない、と。
……忘れられてはいなかったとはいえ、もうあのときのように慕ってはくれないと…そんな風に思ってしまった。
…自分が根倉思考であることは重々承知している。それを踏まえて、だ。
だから、"大切な人"…なんて……私のことなのにまるで自分のことのように思ってくれるなんて……こんなにも嬉しいことがあるか。
『……ねぇ、少年』
「なに?」
クロロ少年は既に食べ終わっていた。それを見計らって私は声をかける。
『帰ったら話しがある…て、言ったの覚えてる?』
それは覚えていなくても当然のことだった。
別れ際とはいえ、彼にとっては小さい頃のたった一言の記憶。だから覚えていなくても関係なかった。……それなのに、私の言葉でクロロ少年の瞳の色が変わる。……覚えているらしい。それがどれ程嬉しいか。表現する言葉は見つからなかった。
「…ああ」
『あれから随分と時間が経ってしまったけど、その話しをしようと思って』
それはクロロ少年と再会したら真っ先にしようと思っていた。…実際は再会したら動揺して真っ先、とはいかなかったけれど…彼と二人きりな今、落ち着いた今、話すには十分だろう。
「なら、先ずオレからいいか」
『少年から?』
「オレも言っただろ。ノアに話したいことがあるって」
それは言ってたけれど…大体少年の話の内容は予想がついていた。それは今となっては特に話す必要のないこと。…まぁ…それでも…改めてそう言ってくれるのは嬉しい。
「オレはノアに隠していたことがあったんだ」
『うん』
やはりその話か、と思う。隠し事には気づいていたし、その状況で"話がある"と言われたら真っ先にそこを疑うだろう。
隠し事、についても大体の予測は立っている。
「オレがノアと過ごした時間、一年半じゃないんだ」
『う、……………うん?』
思っていた言葉と違う。
てっきり感染症のこととか大人のことかと………え、時間?
「本当は四年なんだ」
『………………ちょっと待ってね』
必死に頭を回転させる。……少年は何の話をしてるんだ。隠し事…だよな。ならこれは隠していたこと。少年と過ごした時間………つまり私が教会で過ごした期間だ。それが一年半。……大体その位だろう。"正"の字の数を正確には覚えていないがそのくらいではある。で、それが、なんだ。本当は四年……。
『………つまり……私は一年半だと思っているけれど実際は四年だと』
「ああ。四年ぴったりでもないんだけど、大体そのくらいになるかな」
『……………えっと……』
どちらにせよ、分からないんだが。
…あの教会では昼夜の区別がつかないとはいえ、流石に一日中寝ていることはないだろう。体内時計はしっかりしている方だ。それに少年は毎日私の所へ来ていると言った。だからこそ少年の来た回数を正の字で書いていたんだ。……それなのに実際の日数と食い違うなんて…まずあり得ない。あり得ないというか、説明がつかない。
「やっぱり気づいてなかったのか…。ノアは一度寝ると平均して二日は起きないんだ」
『………………はい?』
「そういう反応すると思った」
そう言って少年は笑う。……いや、だって、無理もないだろう。……一度寝ると二日は起きない……?なんだそれ。ナマケモノより酷いじゃないか。
「平均、だから1日置きの時もあれば3週間起きないときもあったんだけど」
『!ちょ、ちょっと待って…ええっと……取り敢えず…少年が言ってた"毎日来ていた"っていうのは嘘ってことでいいのかい?』
「嘘じゃない」
聞けばきっぱりとクロロ少年は否定した。私は驚いて目をぱちぱちさせる。
「……それは、嘘じゃない。オレはちゃんと毎日ノアに会いに行っていた…。……そもそもいつ起きるかも分からなかったからノアにとって"毎日"を作るにはそうするしか無い」
クロロ少年は呟いた後取って付けたように言う。後半も嘘じゃないだろうが……ああ、そっか。少年は私に会いたくて毎日来てくれたらしい。
『……』
「………なに、その顔」
『ううん。少年の気持ちが嬉しくて』
「……さっきから嬉しいばっかり言ってるな」
『だって嬉しいからね』
この感情を言葉にするなら"嬉しい"が一番近いのだ。素直に…純粋に…嬉しい。
「……その様子じゃ、今はそんなことはないみたいだな」
『うん。ちゃんと毎日起きているよ』
日付は毎日確認しているから間違いない。
今まで二日置きに起きることを知らなかった、ということは……教会を出てから治ったのか。治った、というのが適切かは分からないが…毎日起きるのが正常ではあるだろう。
……教会にいた頃、目が覚めて彼らが瞳を大袈裟なくらい輝かせたのはこういうことだったのかもしれない。眠るときあんなにも悲しそうな表情をするのも、彼女のタックルの意味も、分かった気がした。
「それと、怪我が治るのも知ってた」
『え、そうなの?』
「ああ。ただ、これに関しては一度しか見てないから確信はなかったけど…。さっきのを見て確信に変わった」
だから驚いていなかったのか。
「ノアの肩にナイフが刺さって…その後オレたちが教会から出ている間にノアが倒れたことがあっただろ」
『うん』
「倒れた後、ノアに言われた通りナイフを抜いたんだ。そしたら傷口が塞がった」
…そうだったのか。それなら寝ていた期間は少なかったのかもしれない。……ああ、いやでも3週間起きなかったこともあるって言ってたよな……。…結局、なんとも言えない。
傷がつかないのはどうやら教会にいた頃からだったらしい。
てっきり教会から出てからだと思っていた。確かめた訳ではないが、自覚したのが出た後だったからな…。自然とそう思っていた。