碧に染まって
□変わったもの
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彼女が寝室に戻っていく背中を見送ってオレは手元に視線を落とす。
白いティーカップの中にはまだ少し液体が残っていた。自然に手を伸ばしてカップを持つ。それから口をつける。
……甘くはない。砂糖は入れてないらしい。レモンの酸味が良く利いていた。
味覚が無い、か。
それは少し残念だった。というのも再会したら、ノアに色々なものを食べさせたかったから。…昔とは違って今のオレは大人だ。金もある。ノアに美味しいものをご馳走したかった。それによってもたらされる彼女の反応を見たかった。
………まぁいい。何も与えることが出来るものは食べ物だけじゃない。
服とか宝石とか…彼女にたくさん買ってあげたい。オレの選んだものを身につけて欲しい。それはずっと昔から思っていたことだった。
彼女の性格から考えて、そういうものを欲しがるタイプではないだろう。…それでもきっと嬉しそうに笑って受け取ってくれる。…オレはそれが見たい。
好きな人に何かを送りたくなるのは当然の心理だろう。
カップを元の位置に戻すと同時に、彼女が戻ってくる。
ノアは藤色の淡い着物に身を包んでいた。…昨日も思ったが着物なんて珍しい。ジャポンの伝統衣装の筈だ。只でさえ修道服でないノアは新鮮なのに、着物を着ている彼女は余計に別人に見える。勿論彼女であることには変わらないのだが。
『…?あれ残り飲んだの?』
「ごめん。つい」
『つい、で飲むのはどうかと思うけど……別に怒ったりはしないさ。飲みたいなら頼もうか?』
「いや」
否定すれば、そう、と短く答えてノアはさっきまで座っていた位置に戻る。
『甘かった?』
「甘かったよ」
『そっか』
嘘はついてない。ノアが関わればどんなものも甘くなる。
「…それ、着物か」
『うん』
「なんでまた、着物なんて着てるんだ?」
疑問を聞いてみることにした。これもまたオレの知らないことだろうから。
そう思って尋ねると彼女の口端がぴくり、とひきつった。それは嫌なものを見たような…突かれたような表情だった。
『…有効活用というかなんというか…あるなら着ようかな、というか………あー、変…かな?』
一言二言なにかを早口で呟いてから控えめに尋ねてくる。オレの質問を勘違いしたらしい。
「変じゃない。とてもよく似合ってる。綺麗だ」
『!…そ、………れはありがとう』
ノアは微笑んでからそっとオレから目を反らした。……瞬きが多い、頬が少し赤らんでいた。この反応……オレがいない間にノアに寄ってきた男はいない。………ほっとした。
ノアがそういったことに疎いのはなんとなく分かっていたが、それにしても彼女はこの美貌だ。彼女が相手にしなくとも寄ってくる男は多いだろう。
『……着物はね私の世界にもあったんだ』
呟くように彼女は言う。オレは思考を止め、彼女の言葉に耳を傾ける。
ノアの居た世界…。
ノアがこの世界の人ではないと知って、驚きと疑いはあったが納得もしていた。
なぜなら、彼女は明らかにこの世界で異質だ。それはノアと出会った日から常々感じていたこと。
「日本、か?」
『!………覚えてるの』
ノアは目を見開く。…発した言葉は少し震えていた気がした。
日本。それが彼女の居た世界。そのことを知ってから"日本"については色々調べた。しかし、ひとつも情報は出てこなかった。……この結果からも彼女が嘘をついてないことは理解できた。
『…うん、日本。こちらの世界の"ジャポン"とよく似ている国でね。…まぁ似ているだけで別物なんだけど…ああ、そうそう』
ノアは何かを思い出したように声をあげる。
『だから私の髪と目も少年みたいに真っ黒だったんだよ』
そう言うのはジャポン人の多くが髪と瞳の色が黒だからだろう。
「想像がつかないな」
オレにとってのノアは金糸の様な髪に緑の瞳だ。…でもきっと黒も彼女には似合うだろう。例え何色であっても彼女の美しさは揺るがない。
『そうだろうね。……これは私の予測なんだけど』
彼女はそのまま続ける。
『私はおそらく、魂だけがこちらに来てしまったんだと思う』
「魂だけ?」
『この体は私のものではないから。…それに、私の体は既に焼けて使い物にならない。どういう仕組みかはわからないけど多分、そう』
彼女は何かを思い出すように目を伏せる……いや、そう見えるだけでただ瞼を閉じただけかもしれない。
彼女は直ぐに瞼を上へあげた。
『ほら。電話とかインター…こちらでは電脳ネットか…そういった電波信号の送受信は出来ても物体の転移はまだ科学的に実現されていないでしょう?魂を電波…と捉えるかはあれだけれど、形の無いものではある……あーでも、写真…画像データとかなら一応…台紙が必要であったとしても一応転移……擬似転移は可能なのか………。……あれ、そうなると……』
始めはオレに話していた筈だが、やがて声は小さくなり独り言の域になる。別に理由なんてなくてもオレはノアを信用するのに。それは彼女だって分かってるだろう。…なら、自分自身に言っているのか。
「不可能を可能にする、という意味でなら"念"だろうな」
『私も念は一理あると思う。ただ』
「ただ?」
『私の世界に念があるのか分からないんだ。死ぬまでに聞いたことはないし…見たこともない。けれど、念はそもそも一般の目に触れるものではないでしょう?だから…もしかしたらあっちにもあったのかもしれない』
どちらにせよ…確かめる術はないんだけどね。彼女は困ったように笑う。
…違う世界から来た人間…聞いたことはない。吹聴している者はたくさん居るがどれも真実ではない。彼女の様な確実性はない。…しかし、居ないとも言い切れない。現にノアがいる。捜したら案外見つかるかもしれない。
だが、そこには大きな問題がある。
『………』
ノアは未だに思考を巡らせているようだった。考えているときのノアは表情がころころと変わる。
オレは彼女に尋ねるか…否か、一瞬悩んで聞くことにした。何れは避けられないことだ。
「こちらに来た方法が分かったとして…ノアは、元の世界に帰るのか?」
オレにとって重要なのはそこだった。
なるべく平然を装って尋ねたつもりだがどこか心に残るものがある。
……もし、ノアが帰るのならオレはそれを阻止しなければならない。
ノアはオレの問に目を開いた後、ふっと笑った。それはくすくす、から、はっはっは、と色を変える。
『少年。君はおかしなことを言う』
ノアは笑いを少し抑えて……それでも頬はあがっていた……オレを見る。
『私に帰る場所はないんだよ』
それに、と彼女は続ける。
『帰る場所は君が作ってくれたじゃないか』
その言葉に息を飲んだ。
…飲んで、それからゆっくり吐き出す。
「…………」
冷静に考えれば分かることだ。それなのに尋ねてしまったのは…やはり長らく離れていたからだろうか。…教会にいた頃ならノアがオレから離れていくなんて、想像していなかった。
『それで、そろそろ聞いても良いかな』
「なに?」
改まってこちらに目線を向けるノア。その瞳はやはり、何度見ても惹き付けられる。どんな宝石よりも、輝いていてどこか妖艶だ。
『私の記憶だと、私は夜の町を散歩していた筈なんだけどな』
ノアはどこか意地悪そうに言う。
『…わざわざ気絶させなくっても』
そしてわざとらしく拗ねてみせた。
どうやらノアはオレが気絶させたと思っているらしい。
「驚かせたかったんだ」
『そうだとしたら正に君の思惑通りになったわけだ』
…嫌みの割には彼女はそこまで嫌そうな顔ではなかった。
オレはノアに何もしていない。
ただ、近づいた途端、彼女は糸が切れたように意識が無くなった。そのままオレの腕に収まるように倒れ込んできた。それだけだった。
…ノアの反応からして、オレの言葉に疑いは持っていない。つまり彼女は気づいていない。それが何を意味するのか。
『酷いなぁ全く…別に逃げたりしないのに』
「…………」
…まぁ、なんでもいいか。
ノアがここにいることは変わらない、何かあるならそれは追々探れば良い。幸いにも彼女は気づいていない。
「ノア」
『うん?』
「午後はみんなに会いに行こうか」
『え…いいの?』
ノアは驚きながらも嬉しそうだった。ノアの疑問は"今日一日は独り占め"についてだろう。
「ああ」
オレは頷く。
「今日一日だけ…にしたくないから」
少し子供らしくそうやって言えばノアは表情を和らげる。
本音を言えばノアはずっとオレの隣で誰にも触れさせないでおきたいが…あいつらもずっとノアを捜してきた。その苦しみを、オレは知っている。それに彼女だって会いたがっている。
『…君がそういうのなら私が否定する理由はない。…そもそも私は君のものであるからね』
ノアは微笑みながら何かを思考していた。…脳裏にはきっとあいつらが映っているんだろう。まだ小さかった頃のオレ達が。
「ノアは変わらないな」
唐突だからか、彼女は少しぽかんと目を丸くする。しかし直ぐに微笑みを戻した。
『そう見えるのなら嬉しい』
オレの言葉をどう捉えたのかは分からないがノアは続けて、"でも少年も大して変わってないよ"とも言った。
「そう見えるのなら嬉しいよ」
『…真似したな』
「そんなことない」
『嘘つけ』
軽く問答して、それからふっと笑い合う。やがてどちらともなく収まった。
『少年は…少年だよ。私がノアであるように』
それは誰かに言い聞かせるようだった。
「ああ。そうだな」
少年は少年で、彼女は彼女だった。変わったのは。
言い聞かせるように頷いた。