fan fiction

□暮れてゆく空は
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ああ、あの人とは違う。


恋人の胸に背を預け、慣れた腕に抱きしめられて、雲雀はそっと息をつく。
慣れ親しんだ──いるべき世界の、というべきか──並中の校舎。
屋上のコンクリートの床に座りこんで、すでに暮れかけている空を眺めながら。


「恭弥?」


同じ声。
優しい腕も温もりも、同じもののはずなのにやはりどこか違う。
そう思うことは、どこか後ろめたくはあった。
疚しいことなど、誓ってないのだけれど。


「なんでもない」
「また、十年後の俺のこと考えてたか?」
「ディー、ノ?」


思わず、身体を離して振りかえる。
至近距離で見つめた瞳はいつもどおりに穏やかで、それ以上なにも問えない雲雀に、ディーノは小さく苦笑した。


「むこうから帰ってきてから、おまえときどき俺のこの辺見てるときがあるんだよ」


そう言いながら、自分の肩越しに背後を示した手でくるくると円を描いてみせる。


「そう……」
「ああ、勘違いすんなよ? 俺は別に怒ってるとかじゃないぜ? そりゃ、ちょっとは妬けるけどな」
「怒らないの?」
「怒れねえだろ。あっちに俺が行けなかった以上、向こうの俺が恭弥の傍にいるのは、まあ、当然と言ったら当然のことだしな」


あの、たしかによく知る町でありながら、同時に知らぬ町でもあった並盛で。
雲雀にとって現実とのよすがとなったのは、あちらの世界のディーノだけだった。
町と同様に、よく知っている人でありながら、同時にまるで知らない人であったにもかかわらず。


「そんなにいい男だったのか? 十年後の俺?」
「……相変わらず、へなちょこだった」
「そっか」
「あなたこそ、勘違いしないで」


なにもなかった、とは言えないのかもしれない。
何度も抱きしめられたし、頬や額にならキスされたこともある。
ひとつのベッドで一緒に眠りもした。
けれど。
雲雀はいってみれば預かり物で、彼にとって大切なのは預けた人間だった。


「──あの人は本当に恋人を愛していて、僕を身代りにするようなことはしなかったよ」


抱きしめる腕も、キスも。
優しくて暖かくて、けれど、決定的に熱が足りなかった。
雲雀に与えてくれたのは、あくまでも家庭教師として、あるいは保護者としての親愛の情であって、それ以上のものではなかったのだ。
もちろん、雲雀がそれ以上を望むはずもない。
ただ。
その揺るぎない愛情は羨ましいと、少しだけ思った。
そんなふうに、愛されている彼の恋人が。


「十年後も、俺は恭弥一筋ってことか」
「彼の恋人が十年後の僕かどうかは、知らないけど」
「おい」
「だけど、僕にはあなただけだよ?」
「恭弥?」


驚いたようにわずかに瞠られた、ディーノの瞳。
その澄んだ茶色の瞳も、彼と同じもの。
それでも、雲雀にとって意味を持っているのはこの一対だけだと、ディーノはわかってくれているだろうか。


「僕の恋人はあの人じゃなくて、あなたでしょう?」
「もちろん、そうさ。いくら相手が自分でも、恭弥を譲る気はねえよ」
「……うん」
「──愛してるからな、恭弥」


抱きよせられてそっと見あげれば、望みどおり唇にキスが落ちてくる。
触れるだけでも感じる、その熱。


「あなたがすぐに会いにきたから……」
「ん?」


もとの世界に帰ってきても、正直実感がわかなかった。
ここはたしかに自分の並盛なのだと理解はできても、相変わらずどこか非現実的で。
怪我をした彼のことが、気がかりだったせいもある。
そういう意味では、心が残っていたと言えるかもしれない。
けれど。
仕事をすべて放りだして飛んできたディーノに、なりふり構わず抱きしめられて、気がかりも心残りも、一瞬で消えた。
記憶はあるといっても、離れていた時間を実際に体感したのは雲雀だけのはずなのに、ディーノは目に見えて憔悴していて、そのほうがもっとずっと気にかかったから。
苦しそうに、何度も何度も雲雀の名を呼びながら、そのたび力がこもる腕のほうが、より強く雲雀の心を捉えたから。
そうして。
もう二度と離すまいとするように、痛いくらい強く抱きしめられた腕の中で、自分だけに与えられる熱を感じてようやく、帰ってきたのだと実感できたのだ。
自分の、いるべき場所へ。
自分だけの、恋人のもとへ。


「あの人を思いだすのは、あなたが僕のものだって、わかるからだよ」
「……それって、あれか? 俺が恭弥のものでよかったって、思ってるってことか?」
「それ以外に、なにがあるの?」


嬉しそうに笑うディーノの胸を押しのけて、背中をむける。すかさず、ぎゅっと抱きしめられた。


「恭弥。俺、すげえ幸せ」
「……お手軽な幸せだね」
「ちっとも手軽くねえよ。時空を挟んで生き別れとか、二度とごめんだぜ」
「たしかに」
「なあ?」
「なに」
「十年後には、おまえが会った俺よりもっとずっといい男になるから、楽しみにしてろよ?」
「……あの人、本当にへなちょこだったけど」
「こだわるなよ、そこに」
「大丈夫だよ。へなちょこさでは、いまでもあなたが勝ってる」
「おまえなあ」


咎めるように身体をゆすられて、傾いた視界にいちだんの濃くなったオレンジが広がった。


「……あの人と会ったときも、こんな空だったよ」


綺麗な夕焼けの記憶は、少しずつ上書きされていくだろう。
もちろん、あの世界で出会ったディーノのことを本当に忘れてしまうことはない。
それでも、記憶の彼の姿の上に、自分の恋人を重ねつづけていく。
そうして。
十年後に夕焼けを見て思いだすのは、彼ではなく、このディーノの姿になっているはすだ。


「いまごろ、むこうでも一緒に夕焼け見てるかもな」
「そうだね」


そして、彼のなかでも自分の姿は恋人のものへと変わっていくのだろう。
それで、いい。
お互いが、恋人とともに歩く未来を手に入れるために、自分たちは出会ったのだから。


「そう考えると、そんなに遠くない気もするよな。十年後なんて」
「ディーノ」
「ん?」
「あなたがどんなにへなちょこでも、ずっと傍にいてあげる」
「……もう勘弁してくれ。なんか、嬉しすぎて死にそう」
「へなちょこ」
「ひでえ」


たとえ、未来が無限の可能性を秘めて未知数だとしても、このへなちょこだけは変わらないに違いない。
半ば呆れ半ば感心しつつ、投げた視線の先。
オレンジにラベンダーが重なり夜の気配が増した空の上で。
そんな雲雀の気持ちにこたえるかのように、宵の明星がちいさく瞬きをくりかえしていた。




end

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