fan fiction
□sick
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「恭弥、そろそろ帰ろうぜ」
聞こえた声にはこたえなかった。
波打ち際、ぎりぎり砂が濡れていない場所に立って、灰色の海を見ていた。
海鳥さえいない景色は寂寥としていて、それが見たくてやってきたのに、少しも気持ちは晴れなかった。
淋しいと思ったから、もっと淋しいだろう場所に来たら、それが薄まると思っていた。
けれど。
負の感情は、掛けあわせても相殺されることはなく、ただ互いを際立たせるだけらしい。
「恭弥」
さくさくと、砂を踏む音が近づいてくる。
「あなたは先に帰りなよ。僕はもう少しここにいる」
「眺めるだけなら、車の中からでもいいだろ」
「ここでいい」
「ったく」
溜息と同時に、肩に柔らかな重みがかかって背中が暖かくなった。頬をくすぐるのはフードについているボアの毛先だろう。
すぐさま脱ごうとするのを、背後から抱きしめられて阻止された。
「跳ね馬?」
「ほら、こんなに冷たくなってるじゃねえか」
そっとつかまれた両手を、ひとまわり大きな手に包みこまれた。
自然、自分を抱きしめる男に身体を預けることになる。
手だけではなく、身体全体をくるみこまれるように。
「手が冷たいのは元からだよ」
「おまえ体温低いもんな。だから余計無茶すんじゃねえよ。風邪こじらせて入院したことがあるんだろ?」
「……どうして知ってるの?」
「ん? ロマーリオが草壁に聞いたって教えてくれたぜ」
「草壁……」
ロマーリオというのは、たしかあの髭の男だ。
いつのまに、副委員長とそんな話をするようになったのだろう。
「ツナが入院してたのと同じ頃らしいから、もしかしたら、病院のなかですれちがうくらいのことしてたのかもな」
「──帰る」
手を振りはらい、優しい拘束から逃れる。
羽織っていたコートを無造作に脱いで、突きかえした。
「おい?」
「僕には必要ない」
「いいから、着てろ。車まででいいから」
「車までなら、なおさら必要ないよ」
「寒そうにしてるの見てるほうが寒いんだっての」
「寒くないよ」
「だから、そういう意地は張るなって言ってるだろ」
「本当に、寒くないんだよ」
寒くなかったのだ。
コートを羽織らされて抱きしめられるまでは、本当に寒さなど感じていなかった。
けれど。
いまは、寒い。
少なくとも、自分の身体が冷えていることは理解した。
気づいてしまった。
ひとときにせよ、温もりに触れれてしまったから。
「恭弥?」
「……あなたこそ、マフィアのボスが風邪をひいたらみっともないよ」
訝しげなディーノに、無理矢理コートを押しつけて歩きだす。
さくさくと、砂のうえに足跡を残しながら。
「恭弥、待てって」
声と同時にまた肩をわずかな重さがかかった。
「しつこい。必要ないって言ってる」
「そう言うなよ。可愛い教え子に風邪をひかせたとあっちゃ、家庭教師の名折れだろ」
コートの上から肩を抱かれてしまっては、脱ぐことができない。
「コートよりも必要ないよ、家庭教師なんて」
「だよなあ。つうことで、これは着てろ」
そんな二択をしたつもりはないのに、そのまま促されて歩きだすしかない。
肩に置かれたままの手。
たしかな現実として傍らにいる人を、遠くに感じるのはどうしてなのだろう。
自分を包む温もりを感じても、けして暖かくはならないことを、雲雀はもう知っていた。
むしろ、それは雲雀から熱を奪い凍えさせていく。
身体の内側からじわじわと蝕んでいく、悪い病のように。
白茶けたコンクリートの階段をのぼりきったところで、砂浜を振りかえった、
いまはもう誰もいないそこには、四つの足跡。
海へ向かう二つと、海から帰る二つ。
行きも帰りも、足跡は綺麗に並んで続いていた。
触れるほど近く、けれども、ひとつとして重なることなく。
それが、端的に自分たちの関係を表しているようで、雲雀の唇に苦い笑みが浮かんだ。
「どうした?」
「なんでもない」
笑みを消して車に乗りこむ。
羽織っていたコートを脱いで、ディーノに差しだした。
「そのまま着てればいいだろ」
「車までの約束だよ」
「約束か、あれ?」
「とにかくいらない」
実際に車内はそれほど寒くない。空調が効いてくれば、本当にコートなど必要なくなるだろう。
「しょうがない奴だな……ホテル戻ったらすぐに風呂入ってあったまれよ?」
「……そうだね」
「恭弥?」
ディーノがにじりよってきて、雲雀の顔を覗きこんだ。
「なに?」
「なにかあったのか?」
「なにも」
「本当か?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
「だって、おまえ変だぞ。いきなり海行きたいとか、そんなこといままで言ったことなかっただろ」
「僕が海に来たらいけない?」
「そうじゃなくて。なあ。なにかあったんなら話してくれよ。俺にできることならなんでもするぜ?」
「そう……へなちょこなあなたに頼めることなんて、高が知れてるけどね」
「恭弥、俺はマジで言ってる」
「僕も真面目に答えてるよ……あなたの手を借りなきゃいけないようなことなんて、なにもない」
「本当だな?」
「本当だよ」
まだなにか言いたげなディーノの視線を振りきって、窓の外を流れる景色を眺めるともなしに眺める。
早くも海は見えなくなり、人工的な建物が続くだけだ。
あの足跡を消してくればよかった。
ふいに、強くそう思った。
砂浜は刻々と遠ざかり、そこにはまだ四つの足跡が取り残されている。
その情景は雲雀をひどくやるせなくさせた。
もしいまこの世界から自分たちが消えてしまったとしても、あれだけが残っている。
そんな、非現実的で喜劇的な被害妄想が浮かんだ。
だから。
せめてと、願う。
せめて、早く潮が満ちて消してくれればいい。
けして交わることのない、二つの足跡を。
二人でそこにいた証となるものを、跡形もなく、すべて。