神隠しの森で

□Prologue
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『おやかたさまのいえ』


MさんにはT君という息子さんがいる。
このT君が三歳のとき、突然いなくなった。
MさんがT君を連れて里帰りをしていたときのことだ。
ある日の午後、Mさんは縁側で洗濯物を畳んでいた。T君は庭で紙飛行機を飛ばして遊んでいいたらしい。
「タオルを手に取ったときでした。地元の信用金庫の名前が入ったタオル。いまでも、はっきり覚えています」
風か吹いた。かなり強かったとMさんは言う。
「それで、一瞬息子からタオルに意識がむいたんです」
風がおさまると、庭で遊んでいたT君がいなくなっていた。
「そりゃあもう慌てました。実家の前の道は交通量は多くないんですけど、その分みんなスピードをだしているんです。それで事故が起こったことが何回かありましたから」
Mさんは大急ぎでその通りへ出た。けれど、どこにもT君はいない。
家に入ったのか、それとも、裏山にでも行ったのか。Mさんは何度もT君の名前を呼んだ。その声を聞きつけた母親や、たまたま通りがかった近所の人たちも加わって、T君を探すがどこにもいない。すぐに警察に通報して大掛かりな捜索をしたが、ついにT君を見つけることはできなかった。
「誰ともなく、神隠しだという話になりました」
Mさんの実家があるあたりは、昔から神隠しの言い伝えがあるのだという。 
「だって、一瞬だったんですよ。風が吹いて息子から目を離したのは。せいぜい二、三秒です」
そんなわずかな時間で三歳の幼児が移動できる距離などたかがしれているだろう。警察は誘拐の線を疑ったらしいが、不審な人間や車両の目撃情報はなかった。
「毎日ただ泣いてすごしました。ほら、七つまでは神のうちっていうでしょう。だから、息子も神様に連れていかれてしまったんだと思って」
ところが。一月後、いなくなったときと同様の唐突さで、T君が帰ってきたのだ。
「近所にある神社の、賽銭箱の前で眠っていたそうです」
最初にT君を見つけたのは、犬の散歩をしていた老人だった。せまい町のこと、その人もT君の捜索に加わった一人だった。
「大騒ぎになりました。そりゃあ、そうですよね」
T君は失踪した時に着ていた服を着ていた。しかも、それはきちんと洗濯されていたものだった。食事や入浴もきちんとさせてもらっていたようで、いたって元気だったらしい。
Mさんが「いままでどこにいたの?」と尋ねると、T君は「おやかたさまのいえ」と答えた。
「まさかそんな時代がかった言葉が返ってくるなんて、誰も思っていませんでした」
そして、T君から聞きだせたのはそれだけだった。なにしろ、相手は三歳児なのである。
「警察では、犯人がわざとそう呼ばせたのだと考えたようです」
それも無理はないだろう。いまどきお館様などと呼ばれている人がいるとは考えにくい。
結局、T君の失踪事件は誘拐であったのかどうかすらも判然としないまま、終結することになった。
「たしかに不思議というか、釈然としなかったんですが、とにかくTが無事に帰ってきてくれただけで充分だと思いました」
そのT君は現在大学生になっている。しかし、残念なことに、本人はこの事件のことをまったく覚えていないのだそうだ。
最後に、Mさんが言った。
「いまになって思うんです。あの子は一度本当に神隠しにあったんじゃないか。でも、私があんまり泣き暮らすものだから、不憫に思って返してくれたんじゃないかって」







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