…would,

□第六章
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臨也は何事もなかったように携帯を閉じると、再び窓の外に視線を落とす。

「退屈だねえ。なにやる事がないというのは、実に退屈だ。
この窓から人間観察でもしようかと思ったけれど、なかなか面白そうな人材が見つからない」

臨也は大きな溜息をついた。

――いや、溜息をつきたいのはこっちだからね。……主には波江さんだけど。

「じゃあ、仕事したら?」

物憂げな空気を纏せる臨也の背中に事務的な波江さんの声がかかる。
ダラリと窓を眺めている臨也とは対照的に、実に無駄のない動きで室内を往来している。
どこまでも忙しそうな波江さんに、臨也は大仰に両腕を開きながら言葉を返す。

「今のところ、やるべき仕事は君が全部やってくれているからねぇ。ああ退屈だ」
「……殴っていい?」
「断る。いいじゃん、その分はちゃんと給料払ってるんだからさ。雇い主に手をあげるのは得策じゃないと思うけど?」
「それじゃあ、報酬を貰った後で殴る事にするわ」
「ひどいなあ、まったく。ねえ、美琴?」
「私に振らないでよ……それに波江さんの方がどこまでも正しい気がするような?」
「可愛い顔して微笑まないでよ。なんだ、美琴もそっちの味方か」
「それなら遠慮も要らないわね」

波江さんが冷めた表情で呟く言葉に冗談は全く感じられず、臨也は肩を竦めながら再び窓の外に目を移した。

その目はなんだか、具体的に一人の人間を待ちわびているように、私には見えたのだった。

波江さんは例によって黙々と作業を続けていたが、先刻臨也の机のプリンターから打ち出された書類を手に取り、他の書類を整理しながら口を開く。

「この妙な書類は?」
「いつもの粟楠会の事務所の方に送っておいて。ああ、あと……右端の棚の一番上にある青い封筒は配達証明郵便で刃金市の山田さんに、その二個下の棚の上から四枚目の書類を、左端の真ん中の棚にある黄色い封筒に纏めて、その上にある緑の封筒の中に割り符があるから、それを両方ともパソコンの住所録にある桜新町の取引相手に送っておいて。
それが済んだら俺の机の上の責務者名簿をコピーして『ファンドルフェルドサンドリバーサイドフィナンス』の砂河原社長への封書を作って同封してくれ。
そうしたら粟楠会の四木さんに【チョコレートの行方は今だ不明】ってメールを送信、直後にそのメールの履歴とデータをクリアにしたら、パソコンの横にあるクロスワードパズル雑誌の八四ページの空いてる所に『ワレマドリン』と『サメ』と『トランシルバニア』と『ナットウマキ』って入れて、最後に余った所は俺も解らなかったから君が答えを入れておいて」
「……脳年齢でも測るつもりなのかな」

仕事の邪魔をしないよう二人に聞こえない程度に独りごちて、波江さんに目をやるとなんの疑問も持たずにたんたんと作業をしていたので……もう泣きたい。

彼女は無言のまま作業を続け、しかも言われた作業をより効率の良い順番に並べ替え、なおかつ個々の作業を正確にこなしている。

「……このパズルの最後の単語は、[コハクサントコフェロールカルシウム]よ。
……なによ、この専門用語と一般用語が入り混じった性格最悪なクロスワードパズル」
「お見事」

完全に作業を終えて疑問に思っている波江を見て、臨也は両手を軽く叩きながら笑いかける。


「……見もしないで、全部正確に場所を指示できる貴方もね」
「君がきちんと整理しておいてくれるお陰さ。美琴、コハクサントコフェノールカルシウムってなんだか分かるかい?」
「……高校生が知ってたら流石に気持ち悪いわよ」
「おや、俺の美琴を甘く見てもらっちゃ困るよ?こんな馬鹿っぽくても成績優秀なんだから。科学は得意なんだろう?」
「私は臨也のものでも無いんだけどね……えっと、」

実は小説を読んだ後気になってわざわざ調べていたので、知ってる。
なんとなく臨也に答えるのが癪だったので波江さんに向かって記憶を頼りに言葉を紡いだ。

「ビタミンEを補給する薬の名称、ですよね?
ビタミンEは、いわゆる抗酸化ビタミンとしても知られ、脂肪の代謝、細胞膜の安定化、血行をよくする働きがあります。
この薬は、栄養補給の目的で使用するほか、手足の冷えやしもやけ、動脈硬化症などに有効です。副作用の心配はまずないのが特長……ですかね」
「本当……変な子ね。まあよく考えたらこの変人と一年以上一緒に暮らしてるんだもの、このくらいじゃないとやってけないのかしら」
「自覚はないですけど……それは言えてますね」

それで満足したのか、一瞬そっと微笑んだ波江さんの顔は再び無表情に戻り、臨也に向かって尋ねた。

「ところで……粟楠会の四木に送ったメールの【チョコレート】ってなに?」
「ん?拳銃だけどなにか?」

あまりにもあっさりと言う臨也に、波江は一瞬だけ動きを止める。

「いやあ、ほら、1年ぐらい前……君がここに来た直後ぐらいに、粟楠会から拳銃盗んで逃げた奴らがいたろ?」
「ああ……あの忌々しいデュラハンが追っかけてた奴ね。テレビでもあの化物が鎌を振り回してる映像が映ったからよく覚えてるわ」
「うん、その時に、あいつらが盗んだ拳銃の殆どは、警察よりも先にセルティが回収して事なきを得たんだけどさ。
まだ一丁だけ見つかってないんだよね。どうもどっかのガキが拾ったらしくてさ、こないだの拳銃強盗に使われたのがそうみたいだよ。アハハハハ」
「……この部屋が盗聴されてない事を心の底から祈ってるわ」

爽やかだが、底の見えない笑顔を見せる臨也を不気味に思いながら、波江は自発的に次の仕事を探し始めた。

「黒いから、チョコレート?変な隠語だねえ」
「隠語なんて大体変なものさ」

そんな平和な会話の中、私はつい十分ほど前までの懸念を忘れかけていた。
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