「リンドウの花を君に」

□1
1ページ/1ページ

―――パルス歴三二〇年十月十六日。

 アトロパテネの平原において、無敗の騎馬隊を有するパルス軍が、異教の侵入者ルシタニアの奇策によって敗北。
 万騎長たちは次々と戦死し、おびただしい数の死傷者を出したパルス軍は総崩れとなった。
 そして、パルス国王アンドラゴラスと、この日が初陣であった王太子アルスラーンの行方は今だ定かではない。


 王都エクバターナの城内の一角に設けられた医療院で、医療道具や薬草棚を整えていたアイラは、早馬がもたらしたその知らせに言葉を失った。
 出陣の間際、愛馬の背に跨って別れを告げた黒衣の騎士と、不安そうにしながらも毅然と前を向いていた王子の姿が真っ先にアイラの脳裏を過ぎる。
 二人とも無事だろうか。それに、戦場に残る万騎長たちの安否は。負傷者の救護は。なぜ王は軍を退かずに自分だけ離脱したのだろうか。
 不安と心配と焦燥が胸を締め付け、居ても立ってもいられなくなったアイラは足早に療院を出た。

 中庭に面した石造りの廻廊を抜け、王宮へ続く階段に足をかけたその時、前方から万騎長サームが歩いてくるのが見えた。
「サーム殿!」
 物思いに耽っていたらしい難しい顔をした武人は、アイラの声に面を上げて足を止める。
「その様子では知らせを聞いたか」
「はい、たった今」
「では話は早い。今からお前に会いに行くつもりだった」
「私にですか」
「ああ。知らせがもたらした以外の戦況はとんと分からぬ。だが、出陣した我が軍が敗れたとすればルシタニア軍はここ王都へと進軍してくるだろう」
「王都が戦場になるということですか……」
 緊張した面持ちで応えるアイラの細い肩に、サームは不器用ながらも慰めるように手を置く。
「そうならねばいいが……確立は高いだろう。――アイラ。多かれ少なかれ近々、負傷者が出る」
「――準備はすでに整えてあります。療師も薬師も、消耗品の備えも全て」
「上々だ。お前は賢い。療師としての腕も薬の調合も、このパルス随一だ。バフマン老もさぞ鼻が高いだろう」
「そのようなことは……。現に祖父はまだ私のことを子供扱いしますし。もちろん、私自身も己の未熟さを痛感していますが」
「謙遜する必要はない。頼りにしている。お前の存在は兵たちにとって支えになる」
「そう言って頂けると嬉しいです。いっそう精進します」
 どこまでも真摯なアイラの言葉にサームは口端に笑みを浮かべた。そうして、昔よくしたようにアイラの頭をその大きな手で撫でる。
 ほんの前まで小さな少女だった子どもが、今はもう立派な大人の女性である。
 この少女は小さい頃から万騎長たちに可愛がられていた。中でも特にキシュワードとシャプールは実の妹のようにアイラを可愛がっていた。
 その愛らしかった少女は、今では美しく成長し、自分の目指す道を立派に歩んでいる。
 本当に、彼女は強い。
「サーム殿?」
 いきなり撫でられて驚いたアイラが目を丸くさせると、サームははっとして手を下ろし、少し気まずげに咳払いをした。
「ああ、もう行かねば。ガルシャースフとも議論せねばならないのだ。アイラ、後方支援は頼んだ」
「はい、お任せください。――サーム殿も、どうかご武運を」


 その会話をした数日後、恐れていたことは現実のこととなった。
 ルシタニア軍が王都エクバターナの城壁を囲むように布陣したのである。
 ルシタニア軍は見せしめとして生け捕りにした万騎長シャプールを晒し、王都の開城を主張した。
 万騎長サームとガルシャースフの指揮のもと、パルス軍はこれに抵抗したが、パルス軍優位に思えた戦況はわずか一夜にして崩れ去ることとなる。
 ルシタニア軍に触発され、城内の奴隷の反乱が起こしたのである。
 一気に城内へと流れ込んできたルシタニア軍によってパルスの王都は完全に陥落した。
 その戦禍の中で二人の万騎長は倒れ、王妃タハミーネは捕らえられた。


 王都が完全に陥落する少し前、王宮の療院の扉の前に立ちふさがったアイラは、迫り来るルシタニア兵を前に眦を決していた。
「そこをどけ、女!!」
 ルシタニア兵が槍先を尖らせて拙いパルス語で叫ぶ。
「ここに戦場に立てる兵士は一兵もおりません! ルシタニアでは怪我人や病人までもその手にかけると言うのですか!」
 無作法なその様子に剣呑さをあらわにしたアイラも負けじと大声で言い返す。
「私は療師です! 命をかけて患者を守るのが私の使命! ここを退くことなどありえません!」
「どかなければ、殺す! 異教徒の女など殺されて当然だ!」
 じりじりと迫るルシタニア兵を前にしても臆さないアイラは、懐から短剣を取り出した。
 護身術程度しか扱えないが、まったく無抵抗に殺されるわけにはいかない。
 少しでも長く、扉の内側にいる患者たちが逃げる時間を稼がなければならない。
 患者を守るのが療師の務め。そのために自分のできるかぎりのことをしなければと、アイラは思った。
 迫る刃を見て、怖くないわけではない。下品な目を自分に向けてくる大人の男たちを前に、底知れない恐怖も感じる。
 しかし、アイラは自分を振るい立たせた。そして首にかけられた菫青石のペンダントを祈るように握りしめる。
 ―――どうか私に勇気を与えて、――……。
 アイラは心の中で想い人の名を呼んだ。
 もうずっと長い間、その人のことを想い続けている。
 けれどどんなに願っても、あの方はもう手の届かない場所にいる。もう二度と帰って来ることはないのだ。
「――殺せ!!」
 先頭にいたルシタニア兵が叫び、同時に襲いかかってくる。
 口を引き結んだアイラは、短剣を握り締めた。
 ―――ああ、ここで死ねば、あの方に会えるだろうか。心から焦がれてやまない、あの方のもとに……。
 鋭い痛みが次々と襲ってくる。薄れゆく意識の片隅で、アイラは愛しい幻を目にした。
 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ