「リンドウの花を君に」

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 まどろみに沈む朧げな意識の中で、アイラは自分の名前を呼ぶ優しい声を聞いた。
 耳朶をくすぐる、その心地良い声音は、見知ったものよりも低く落ち着いているように思える。
 自分を抱いた腕もまた鍛えられて逞しく、遠い記憶の中の少年とは似つかないのになぜか無性に懐かしさを覚えた。
 同じぬくもりを知っていたからかもしれない。
 触れた肌の熱さも、あの頃のままだった。


 ゆっくりと意識が浮上していく。重い目蓋を緩慢に持ち上げて、何度か瞬きを繰り返すと次第に靄が晴れていった。
 ベッドに横たわったまま、自分の体を見下げるとあちこちに白い布が巻かれている。つんと鼻につく嗅ぎ慣れた薬草の匂いもする。
 四肢を動かそうとすると鈍い痛みがじくりと襲った。
 起き上がるのは諦めて首だけを動かして周囲を見回すと、ここは城下の一角にある自分の家であることに気づく。
 なぜ自分は手当されてベッドに横になっているのだろうか。自分は療院の扉の前でルシタニアの兵たちに襲われたはずだった。
 それなのに、どうして。ルシタニアの兵たちが異教徒の娘を介抱するはずがないのに。

 不意に、死角となって見えない扉が押し開けられる音がして、アイラは肩を震わせた。
 物思いにふけっていてまったく気がつかなかった。人の気配だ。足音からしておそらく男性。
 緊張に固唾を呑む。今の自分に男を相手取った抵抗ができるとは思えない。まして手の届くところに武器もない。
 息を殺したアイラは扉がある方を凝視した。案の定、男がひとり現れる。
 最初に足元が目に入って、続いて服越しにも分かる均衡が取れた体とその腰にかけられた剣が視界に映る。
 さらに視線を滑らせて、アイラははっと目を見開いた。男は仮面を付けていた。
 窓から射し込む光を反射して輝く銀の仮面は、男の顔の半分を覆っている。
 しかし顕になったままの部分は精緻に整っていてそれだけで端正な面立ちをしていることが分かった。
 男はアイラが目を覚ましていることに気づくと、立ち止まりしばらく様子を伺うようにしていたが、やがてゆっくりとベッドの脇へと歩み寄った。
「目覚めたか」
 アイラはそのぶっきらぼうな声音に妙な親近感を覚えた。自分はこの声を知っている、と瞬時に思う。
 しかしその人の名前を思い出せないまま、困惑しながらも頷いた。
「あの……貴方が私をここへ?」
 男の方も、どこか戸惑っているようだった。もしくは驚いているのだろうか。男の節ばった指先が小さく震えたように見えた。
「そうだ。連れてきて手当をさせた」
「それは・・・ありがとうございます」
「お前は俺が恐ろしくはないのか」
 男が静かに問う。その問いにどう答えればいいのか悩んで、アイラは口をつぐんだ。
「この俺を憎むか」
 男が再度問う。今度こそ、アイラは首を横に振った。
「いいえ、命を助けて頂いた方を憎んだりはしません。あの、貴方の名前をお聞きしてもいいですか。私はアイラと申します」
「俺を覚えていないのか。王宮の、扉の前では名を呼んでいただろうに」
「え?」
 アイラは目を見張った。そして仮面に隠された男の顔をまじまじと見つめる。
 アイラの中で何かがはじける音がした。記憶の底に眠っていたその声を、その顔を、その瞳を、その人を思い出す。
 アイラは、まさかと驚愕に唇を震わせた。
 痛む体を堪えて上体を起こしたアイラは震える指先を、目の前の男へと伸ばす。
 男は無言のまま、それでも応えるようにその場に膝をついて目線を合わせてくれる。
 冷たい指先で頬に触れると、男はびくりと体を震わせた。
「あなたは、貴方、様は――っ、」
 アイラの指が、仮面の止め具を外しても男は抵抗しなかった。ゆっくりと仮面が外されて男の素顔が顕になった瞬間、アイラは堪えきれずに男の首に両手を回して抱きついた。
 肩口に額を埋めて嗚咽を堪える。言葉にならない感情が胸を塞いで息ができなかった。
 自分にしがみついて泣き崩れるアイラをヒルメスは優しく抱きしめる。
 あやすようにその薄い背中を撫でながら、亜麻色の髪を指で梳いて、その柔らかな髪に口付けを落とした。
 ああ、愛しい人のぬくもりだと、ヒルメスは歓喜した。
 愛らしかった少女は、大人の女性へと成長していた。想う心もまた、恋から愛へと変わっていった。
 ―――愛おしい。腕の中のこのぬくもりが。愛おしい。自分を求めて泣く彼女の姿が。
「俺を覚えているか」
 ヒルメスが静かに尋ねる。
 その声に答えるようにアイラはゆっくりと顔を上げた。泣き濡れた目元は赤く染まり、形良い唇は赤く色づいていて、扇情的にヒルメスの心を揺さぶった。
「はい、ヒルメス様……ずっと、ずっと貴方様をお慕いしておりました。ずっと、長い間、片時も貴方を忘れたことはありません」
「俺もだ。お前を焦がれてやまなかった。パルスを離れている間、ずっとお前の身を案じていた」
 アイラは目の前の男の全てを確かめるように、火傷の痕が残るその顔をそっと両手で包み込む。自然と二人の唇が重なり合った。
 互いの熱を移し合うような優しく激しい口づけだった。
「醜い傷跡だろう」
「いいえ、愛しい方のお顔です。醜いわけがありません。十六年前、炎に焼かれた貴方を救えなかったことを悔やみ、私は療師となることを目指しました。ひたすらに医学を学ぶことで、貴方を失った悲しみをまぎれさそうとしたのです」
「愛いことよ。王宮の療院の前に立ちふさがっていたのはそういう訳か」
 療院という言葉に、アイラは瞬く間に現状を思い出した。そうだ、自分はあの時、療院で治療していた怪我人や病人を助けようとしていたのだ。
「ヒルメス様、療院にいた人達はどうなりました、無事なのですか? 今はどこに……」
 畳み掛けるようなアイラの言葉に眉をひそめて押し黙ったヒルメスは、やがて重苦しく口を開いた。
「アイラよ、俺は今ルシタニアについている」
「え?」
 言われた意味が分からない。分かりたくないというようにアイラは目の前の男を見つめ返した。
「アトロパテネの戦でパルス軍を突破し、アンドラゴラスとその小倅を追い詰めたのはこの俺だ」
「どう、して……」
「必要だったからだ。簒奪者どもからパルスの王位を取り戻すためには。この俺が王位に就くためには。ルシタニアの馬鹿どもはそのために利用した」
「そのために、パルスの民たちの血を、流させたのですか。罪のない人たちを巻き込んでまで……」
 呆然とアイラは力なく首を振る。
 万騎長サームと最後に交わした会話が脳裏をよぎった。
 後方支援は頼む、そういって自らは前線に向かっていった彼の人を思い出す。
 そして王都を守るために怪我を負い、満身創痍になって療院に運び込まれてくるパルスの兵士たちのことを思い出す。
 痛みと死の恐怖に怯える人たち。治療が間に合わず、自分の目の前で、この手の中で、命を落としていった人たち。彼らはみんな、ルシタニアの侵略の犠牲者だ。
 そのルシタニアに手を貸したのが、今目の前にいるこの人だと言うのだろうか。
 なんて残酷で、無情な運命だろうと、アイラは思った。
「どうして、どうしてですか、ヒルメス様……ダリューンや、アルスラーン殿下は何も――」
「その名を口にするな!!!」
 唸るような激しい怒号にアイラは恐怖した。
 思わず体を後ろに引けば、許さないとばかりに腰に手をまわされて引き止められる。
「簒奪者の子などを、あんな虫けらなどをお前は殿下と呼ぶのか!」
 深い憎悪の中に、悲痛さを込めた怒りの声音だった。
 

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