「リンドウの花を君に」

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 アイラが目を覚ましたのは、それから半日後のことだった。小屋のすみに置かれた粗末なベッドの上だったが、身につけているものは新しい衣だ。情事のあとで汚れていたはずの体はすっかり清められ、下腹部に鈍い痛みが残っている以外は、これといった不調もない。
 意識を失う寸前の出来事はすぐに思い出された。けれども強引に体を開かれた事実よりも、一方的にヒルメスを責め立てた事実がアイラの心に影を落としていた。
 確かにヒルメスの犯した罪は大きい。失われた命の数は計り知れず、残された者たちの悲しみも重い。それでも、彼も辛い過去に苦しめられていたかもしれないのに、自分は彼に訳を聞かず、何も知らないままに責めたのだ。ヒルメスは裏切られた思いだっただろう。
「ヒルメス様・・・」
 もう一度、会いたいと思った。会って話がしたい。
 ベッドの上に上体を起こしたアイラは、あの優しいぬくもりを思い出すように唇を指先でなぞった。
 怖い思いもしたはずなのに、痛くて辛くてたまらなかったはずなのに。
 それでも彼を嫌いになることなんてありえないと確信できた。できるならば彼を救いたい。それが叶わないことだとしたら、私は。
 アイラの意識をそらせたのは、扉を叩く控えめな音だった。中の様子を伺うようにしながら、その音は数回続けられる。
「はい」
 しっかりした声で応じれば扉はゆっくりと開かれた。入ってきたのは思わず目を見張るような美貌を持つ黒髪の女性だった。その手には、綺麗に折りたたまれた衣服と身支度用の小物が載せられている。
「目覚めたようじゃな。気分はどうじゃ」
 見かけに似合わない古風な物言いをするのだとアイラは内心で驚く。
「大丈夫です、気分もいいですし・・・あの、貴女は」
「名乗らずに失礼した。私はファランギース。ミスラ神に仕える女神官じゃ」
 なるほど、清冽な雰囲気も古風な話し方も神官となれば納得だ。アイラは少しだけ警戒を解いて問いかけた。
「ここはどこなのでしょう。私は王都にある自宅で、――」
 その先の言葉を濁すも、女神官は分かっているというように鷹揚に頷いた。
「私はアルスラーン殿下にお仕えしている。おぬしをここまで連れてきたのはダリューン卿とナルサス卿じゃ」
「ダリューンとナルサスが? それにアルスラーン殿下はご無事なのですか」
「いかにも。今はルシタニアの追手から逃れるため、この廃墟の村に潜伏しているのじゃ。さあ、アイラ殿。体を動かして辛くなければ、この服に着替えて身支度を。ダリューン卿とナルサス卿が、そなたをひどく心配している。大丈夫そうなら顔を見せてあげるとよい」
 気づかいに長けた人だとアイラは思った。ナルサス辺りにそう伝えるように言われたのも知れないが、あんなことがあったばかりで男性に会うのが怖いなら無理はするなと言う意味だろう。その心配りに感謝しながら、アイラは大丈夫だと伝えるように微笑み返した。
「殿、というのはお止めください。アイラで構いません。そう歳も変わらないようにみえますし」
「ならば遠慮なくそう呼ばせてもらおう。私のこともファランギースと呼ぶがいい」
 衣服を受け取り、ファランギースの手を借りつつ着替え始める。幸いにして衣服は長袖のもので体に残る痕を全て隠してくれた。唯一、自分が噛み締めて傷つけただろう、唇の傷だけはどうすることもできなかったが。
 それを気にしていると、見計らったようにファランギースが化粧道具を取り出す。感謝して薄化粧をしながら、髪も手早く整えた。
「ダリューン卿たちはそなたをここに連れてくると私を呼び出した。安心せよ、そなたを清めたのはこの私だ。誓って男どもには見せておらぬゆえ」
「ファランギースにはお礼をしなければなりませんね・・・あまりいい思いはしなかったでしょう?」
「否。気にすることはない。若い娘に乱暴する輩を脳内で八つ裂きにしてやっていたまでじゃからな」
 物騒なことを口にするファランギースの横顔を見ていると、アイラは自分の心が落ち着いていくのを感じた。歳の近い同性ということもある。何よりファランギースの潔癖そうなさっぱりとした性格が好ましく感じられた。
「本当にありがとう、ファランギース」
「さて、そろそろ行くとしよう。ダリューン卿らが気を揉んでいるだろうからな」
 そう言って美しく微笑んだ女神官は優雅な仕草で踵を返した。
 

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