「リンドウの花を君に」

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 アイラが休んでいた小屋からそう離れていない場所に彼女を案内したファランギースは、自身はアルスラーン殿下の警護に行くといって立ち去っていった。
 立ち去る間際、自分が一緒にいなくても平気かと尋ねてくれたのは、気を使われたに違いない。
 ファランギースとてナルサスたちが自分をどうこうするとは思っていない。ただ単に自分の心を慮っての言葉だったのだろう。
アイラ自身、自分のあられもない姿を、いくら親しい間柄とはいえ若い男に見られたことには動揺している。もちろん羞恥心も持っているし、気を使わせたことへの申し訳なさも感じている。それでも男性を怖いと思ったり、嫌悪したりしないのは、無体をされた相手がヒルメスだったからに他ならない。
 扉の前で一拍置いて、粗末な木の扉を控えめに叩けば応じる声があった。今の声はナルサスだろう。懐かしさと同時に、なぜかほっとしたような安堵を覚えた。
 扉を押して中に入ると、二人は奥の長椅子に腰掛けながら、床に置いた地図を指差して意見を交わしあっているようだった。
 アトロパテネに出陣していく後ろ姿を見送ったきり、安否を案じていたダリューンの元気そうな姿に頬を緩む。二年ぶりに再会したナルサスも相変わらずの様子だった。
「ダリューン、無事でよかった。ナルサスも久しぶりね」
 ごくわずかの者にしか話したことのない、敬語の抜けた言葉で言ったアイラを、二人は半ば呆気にとられたように見返した。
「どうかした?」
「いや・・・どうもしないが、」
 ダリューンが無意識に返事する様子を横目で見たナルサスは、ゆっくりと自分たちの方へ近づいてくるアイラの姿を盗み見た。
 きっちり着替えも済ませたアイラは普段と何も変わらないように見えた。だが、注意してみれば、顔色の悪さを化粧で隠しているようにも思うし、どことなく腰を庇うような歩き方をしているようである。それでも自分たちを見て怖がる様子はない。むしろ、ほっとしたような表情を浮かべている。ナルサスはそれを少し奇妙に思った。
 ダリューンはそれきり言葉に詰まったのか、口をつぐんでいる。やれやれとナルサスが代わりに口を開いた。
「久しぶりだな、アイラ」
「ええ。二年ぶりよ、ナルサスったらいきなり出て行ってしまったんだから」
「すまんすまん。だがちゃんと、折々の頼りは送っていただろう」
「“それなり暮らしている”っていう一文だけのね。でも、また会えて良かったわ」
 二人の向かいにアイラは腰を下ろした。
 それから、しばらく友である三人は取り留めない会話をする。互いの近況を伝え合って、それらがひと段落した頃に、アイラはふと口をつぐんだ。そして決心したように本題を切り出した。
「二人とも、不快な思いをさせてしまってごめんなさい。でも、助けに来てくれてありがとう」
「アイラ、それはお前が謝ることじゃないだろう」
 案の定、剣呑に目を細めたダリューンにアイラは苦笑を返した。
「二人とも、私は大丈夫だから。療師としての責務を果たしたいし、アルスラーン殿下の支えになりたい。先を思うと恐ろしくないわけではないけれど、中途半端に物事を投げ出すのはもっと嫌なの」
 その言葉をダリューンとナルサスが信じたかどうかは分からないが、それ以上、立ち入って話をしてくることはなかった。心の傷を刺激しないようにと遠慮してくれたのだろう。アイラは二人に感謝した。
 もう一つ、アイラは二人にヒルメスのことを打ち明けるか悩んでいた。二人は銀仮面卿の正体を知らないだろう。ダリューンは叔父を殺した銀仮面卿のことを憎んでいるだろうし、ナルサスは得体の知れない相手を強く警戒している。何より二人はアルスラーン殿下に忠誠を誓っているのだ。常に殿下を随一に考えていてほしいし、二人がそうするだろうとも分かっていた。
結局、アイラはヒルメスの正体を話すことができなかった。自分の中で気持ちの整理がついていなかったことも事実だった。
 ヒルメスのことは今でも愛している。彼を救いたいと願っているし、彼のそばにいたいとも思う。けれどもアイラは、「パルスの王」に就くべきはアルスラーン殿下だと思っていた。療師としても、彼の教育係としても、アルスラーンにはその素質がある。磨けば何ものよりも輝く原石だと確信していた。
「アルスラーン殿下はパルスの希望ですもの。夜闇にはそれを照らす光が必要よ」
 そうしてアイラはパルス奪還をはかるアルスラーン一行に加わることとなった。
 

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