「リンドウの花を君に」

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「殿下、もうすぐダリューン卿が兵を連れてまいりましょう。ご辛抱くださいませ」
 崖と絶壁の間の狭い街道を、限界まで疾駆させた馬が瞬く間に駆け抜けていく。
 先頭の馬にまたがるのはまだ幼さが残る容姿のアルスラーンで、彼を守るようにナルサス、ギーヴ、ファランギース、エラムらが武器を手に続く。身術程度の心得しか持っていないアイラは、彼らの足でまといにならないように注意しながら、ナルサスの隣に自らの馬を並走させた。
「アイラ殿! その愛らしく柔らかい面立ちからは想像もできぬほど、惚れ惚れとした手綱捌きでございますな! 私の手綱も一度握られてみますか」
 自称楽士を名乗るギーヴが、自分も後ろ手に弓を番えながら歌うように軽やかに称賛した。
 彼にとってはルシタニアの追手が間近に迫るこの窮地も、恐るものではないらしい。
 ギーヴが放った矢が鋭い閃光となって、ルシタニア兵の眉間に吸い込まれていく。喘鳴を上げる暇もなく、兵は落馬し視界から消えていった。
「ギーヴ殿のような見事な馬の乗り手に褒められるとは嬉しい限りですが、私は武芸に自信がありません。皆様の荷物とならないように精進いたします」
「アイラが荷物となることはないだろうな。おぬしの療師としての才はこのパルス随一なのだから」
 アルスラーンの言葉にアイラは嬉しそうに頬を緩めた。
「殿下にそう言って頂けるなど勿体無いことにございます」
「謙遜する必要はないよ」
「ふふ、では素直にありがとうございます」
「よければ私に薬草の知識を教えてほしい。これから先、知っておいて損はないだろう?」
 他人を思いやることができるこの優しい王子を、アイラは好ましく思っていた。
 上に立つ者が弱者を知り、彼らに救いの手を差し伸べることこそ、アイラをはじめ命を助ける仕事に従事する者の望みである。そのために自分が持つ知識がこの王子の糧となるのなら、いくらでもお教えしたい。そして、自分自身もまたこの王子について行こうと思えた。
「乗馬は誰に師事したのじゃ?」
 ギーヴの軽言を諌めていた美しい女神官ファランギースが、アイラの手綱を握る手を見て問う。アイラは並走するナルサスと目を合わせて苦笑し合った。
「アイラに馬術を教えたのは万騎長たちだ」
 ナルサスが愉快げに笑う。
「万騎長たちが?」
「はい。私は幼い頃から祖父のバフマンに連れられて度々王宮へと足を運んでいました。幼い私の子守をしてくださったのが彼らなのです」
「誰がアイラに馬術を教えるか、相当もめたらしいではないか。ダリューンが呆れて言っていたぞ。まあ結局、ヴァフリーズ老が馬術を、シャプールとキシュワードが護身術を教える権利を勝ち取ったらしいが。他の万騎長たちもこぞって自分の得意とする武術を教えようとしたが、バフマン老に一喝されて叶わなかったそうだ」
「祖父曰く、“お前たちがこぞって武芸を教えれば、孫娘は嫁に行けなくなる“だそうです。そのかわり、馬術と護身術は死ぬほど鍛錬させられましたが・・・」
「そうだったのか! 確かにヴァフリーズがおぬしに馬術を説いたのなら、その手腕も頷けるな・・・しかし、ヴァフリーズの鍛錬は厳しかっただろう・・・」
 私にも身に覚えがある。と、アルスラーンがいささか遠い目で呟いた。

 その後、カシャーン城砦から兵を率いてきたダリューンがアイラたちと合流し、城砦の中へと入ったときには流石にの表情には疲労の色が浮かんでいた。馬術の腕はたっても鍛えている武人と比べれば、体力に差が出るのは仕方ないことだった。
 心配するアルスラーンやダリューンたちに大丈夫だと微笑んで、宛てがわれた客室でしばし休む旨を伝える。快く送り出してくれたアルスラーンに感謝しながら、身を清めるために、同室となったファランギースと共に一度彼らと離れることになった。
「大丈夫か、アイラ。少し横になって方がいいのではないか」
 客室の扉を閉めるなり、床に倒れこむように座り込んでしまったアイラにファランギースが言う。かく言うファランギースがけろりとして普段とまったく変わらない様子なのを見て、アイラは苦笑を返した。
「ファランギースはすごいですね」
「私はそう鍛えているだけじゃ。むしろ、武人ではないおぬしが、ナルサス卿やギーヴたちの馬に付いて来られる方がすごいことじゃ。さあ長椅子に。しばし休め。休めるときに休んでおかねば後が辛かろう」
 手を取ってアイラを立ち上がらせたファランギースは、彼女を長椅子に案内しながらその手がわずかに熱いことに目を細めた。
「体調が優れぬのか?」
 ファランギースは彼女を介抱したときにダリューンとナルサスと交わした言葉を思い出しながら尋ねた。
 本当の心の内は分からないが、危惧していたほどにはアイラはその出来事をトラウマとして思っていないように見える。
 体中に残っていた痣が消えてからは、おそらく彼女の性分なのだろう、アルスラーンやエラムたちを気にかけ、体調や食事にも気を配る。
 療師として優れているというアルスラーンの言葉通りに彼女の知識は幅広く、道中暇を見つけては薬草を採取し、それを様々な効能の薬に変えていった。
「さすがにここまで強行軍でしたし、療師なのに自己管理ができていなくて恥ずかしいです」
 そう口先でごまかしたものの、ファランギースに指摘されるまでもなくアイラは自分の体調が優れないことを実感していた。微熱、悪寒、気だるさ、それに胃の不快感と続けば嫌でもその可能性を想像してしまう。
 長椅子にもたれかかったまま、ファランギースに悟られないようにしながら懐から丸薬を取り出して飲み込む。体調の変化に気づいてから、自分で調合し飲み続けているものだった。
 半夏、生姜、茯苓、と薬草の名前を口の中で反復しながら、アイラはずっしりと気分が重くなるのを感じた。
 普通であれば気づかないような初期段階から、特有の症状が見られる場合も多くある。自分の予想が外れてくれることを祈るばかりだ。
 まだ、その有無を判断できる月のものは来ていない。いずれにいても、あの日から自分の体調が確実に崩れていくのは確かだった。
 もし、懸念が現実のものになったなら、どうすればいいのだろう。
 それを考えると胸が詰まって余計に気分が悪くなっていく。ひとつ小さなため息をついたアイラは、それ以上考えることを止めて目をつむった。
 

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