「リンドウの花を君に」

□10
1ページ/1ページ

 カシャーン城砦の領主ホディールの過剰接待の祝宴も終わり、王太子一行はそれぞれ宛てがわれた部屋へと戻った。
 食事の間じゅうホディールに付きまとわれるアルスラーンに、アイラは心底同情した。ホディールの権力への執着深さには身に覚えがあった。
 アイラ自身、宮廷人や貴族たちとの付き合いはそれなり長い。特にヒルメスの許嫁だと知られていた頃は、貴族たちがご機嫌伺いに詰めかけたこともあった。それもヒルメスの父王が身まかり、ヒルメスが火事で亡くなったと周囲に広まるや否や、ぴたりと止んだものだったが。
「あの方は何やら良くないことを考えていそうですね」
 ため息をついたアイラが天井を見上げて呟くのを聞いて、ファランギースは同感だと言うばかりに美しい顔を歪めた。
 それからそう経たない内に、窓からギーヴが姿をみせホディールの思惑やこれからの進退を話して去っていく。案の定といった雲行きの悪さにファランギースと二人で解きもしなかった荷物の整理を行った。
 種類別、効能別に整頓された薬草の入った袋を仕分けし終わったアイラは、続いて治療道具の手入れに移った。王都で使っていた道具はそのまま置いてきてしまったから、ここにあるのは道すがら買い足したものや、一から作り直したものが大半だ。
 王都の自宅に残してきた道具の中には、一人前の療師となったその日に、師から贈られたものもあった。無事に保管されているといいが、とアイラは処置用の小刀を磨き上げながら思った。
 「療師にとって知識と道具は己の命と同じくらい大切なものだ。だから手入れは怠らないように」と、自分に繰り返し説いた師の顔を思い出して少し顔がほころぶ。アイラにとって彼の師は、父親代わりであり、最も尊敬する人でもあった。
 今はどこでどうしているのだろう、と考えながらアイラは手入れし終えたものを片付けた。
「アイラ、そろそろじゃ」
 扉の前で外の様子を伺っていたファランギースが低い声で囁く。アイラは護身用の短剣が懐にあるのを確認して立ち上がった。
「ダリューン! ナルサス! ギーヴ! ファランギース! アイラ! エラム! すぐに城を発つ!!」
 アルスラーンの凛としたその一声に、アイラはファランギースと共に扉を開けて廊下に出る。廊下に配備されているホディールの兵たちに驚くこともなく、アルスラーンに付き従って城外へと出た。
 エラムによってあらかじめ鞍を付けられていた馬を引いて城門へと向かえば、後ろから取り縋るようにホディールが追いかけてくる。その顔はすっかり血の気が引き、夜目に見ても青白かった。
 媚びるような態度で何事かを言いつのるホディールだったが、自分の部下をファランギースとギーヴに仕留められると態度を一転させる。ホディールの合図で次々襲いかかってくる兵を前に、一行は武器を手に構えた。ダリューンが高らかに宣言する。
「控えよ!! 大人しく出て行かせた方がおぬしらのためだぞ」
 ダリューンが剣を一閃させるだけでバタバタと兵が倒れていく。エラムとファランギースが弓を引き、ナルサスとギーヴも馬を降りて応戦すれば、アルスラーンの前に敵は無かった。
 ホディールを仕留めた一行は兵が動揺した隙をついて馬を駆けさせる。アルスラーンが奴隷小屋へと向かうのを、アイラは黙然と見送った。


 馬を駆けさせて最寄りの場所で野営を張った後、奴隷たちの言葉を思い出して悲嘆に暮れるアルスラーンのそばにアイラは腰を下ろした。
 そして少年の顔を覗き込む。
「殿下、彼らを助けようとしたことを後悔しておりますか」
 弾かれたようにアルスラーンは顔を上げた。
「悔いはない! 私はただ彼らを自由にしてあげたかったのだ・・・だが、やり方を間違ってしまった」
「そうかも知れません。私にも身に覚えがあることです」
「アイラにも?」
 はい、と頷き返しながらアイラは悲しげに微笑んだ。
「昔、奴隷の者たちを治療したことがありました。流行り病に苦しんでいた者達でした。その奴隷の主は彼らにろくな食事も与えず、寝る暇も与えず働かせていました」
「酷すぎる・・・」
「ええ。けれどそれが現実です。その頃私は師に同行して各地をめぐりながら、道行く先々で病人や怪我人の介抱を行なっていたのです。彼ら奴隷たちも、その中で出会いました。苦心しながらやっとのことで奴隷たちの病を治し終えた後、奴隷たちは口々に言いました」
 アイラは今でもその言葉を鮮明に記憶している。自分が信じる正義がもろく崩れていった瞬間だった。
「なぜ俺たちを治療したのか。俺たちは早く死にたかったのに。やっと楽になれると思ったのに。奴隷たちはそう言いました」
「なん、で・・・」
「そう、その頃の私もどうしてと思いました。人にとって生きること以上の幸いはないと信じて疑わなかったのです。けれども奴隷たちには違いました。混乱する私に師は言いました。私たちは彼らを救えなかったのだと。怪我や病を治しても心を救わなければそれは意味のないことなのだと」
 世の中には不条理なことも存在する。自分が善かれと思ったことであっても、他者にとっては偽善以外の何ものでもないことがある。療師は傷ついた命を救うことに一魂を費やすが、死にたいと思う奴隷たちにとってそれは自分たちの阻害となるのだ。
「私は今でも彼らの病を治したことを後悔していません。けれどもその日から、ただ目に見えるものを治療するだけは、本当の意味で人を救ったことにはならないのだと胸に刻みつけています」
「本当の意味で、人を、救う・・・」
 その言葉を口の中で何度も繰り返しながら、アルスラーンは思った。アイラにも悩んだ時期があったのだろうか。自分の知っているアイラは、いつも笑顔を絶やさず、ひたむきに弱い者に手を差し伸べる優しい人だ。ただ優しいだけでなく、自分の意志を明確に持ち、真摯に命と向き合う。その心の強さにアルスラーンはずっと憧れていた。
「なれるだろうか。私もアイラのような強い人に」
 そう言うと、アイラはわずかに戸惑ったように悲しげな目をした。
「私は強くありません。けれども、強く在りたいと願っているのです」
 強く在りたいと、そう願わなければ、地に立ってなどいられない。心を奮い立たさなければ、涙が溢れ出してしまいそうになる。
 弱くもろいこの心を、必死に押し殺していることをアイラは自覚していた。それでもアイラは、アルスラーンやダリューンたちの前でその心をさらけ出すことはないのだった。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ