「リンドウの花を君に」

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 一足先にペシャワール城へたどり着いたナルサスは城門をくぐってすぐに出迎えたキシュワードに手短に事情を説明し、意識を失ったままのアイラを城に駐屯する軍医に見せるように手配した。キシュワードは客室に人払いを命じ、固く口を噤ませた軍医と侍女一人に介抱を頼む。
 その足でアルスラーンたちを迎えるためナルサスは再び馬上の人となった。今度はペシャワール城の兵を連れた双刀将軍キシュワードを伴ってである。
 ナルサスとキシュワードが城を出て行ってすぐ、ペシャワールを預かるもう一人の万騎長バフマンが、アイラが寝かされている客室へ訪れてきた。齢六十を超える老齢にも関わらず、快闊で数々の武功を持つ最高齢の万騎長は、アイラにとって唯一残された身内である。幼くして両親を失ったアイラを引き取り養育したのは他ならない彼だった。
 数年前に宮廷を去り隠遁生活を行っていたナルサスがアイラを連れてこのペシャワール城に辿り着いたと聞いたとき、バフマンは心底動揺した。アルスラーン殿下一行もすぐそばまで迫っているという。事情を聞く間もなく再び出て行ったナルサスをバフマンは複雑な思いで見送った。
 軍医の診療を受けた後、侍女によって身を整えられ、ベッドに横になる孫娘のすぐそばに腰を下ろしたバフマンは深いため息をついた。
 しばし無言で孫娘の青白い顔を眺めていると、その瞼が小さく震えてゆっくりと開かれていく。どこかぼんやりとした翡翠色の瞳が周囲をさまよい、やがて自分の方へ向けられるとバフマンは安堵と共に無意識にこもっていた肩の力を抜いた。
「おじいさま・・・」
「寿命が縮むかと思ったぞ、この孫娘め」
 目を細めて呟いたアイラの手を、バフマンは皺だらけの手で握る。ああ、小さな頃から変わらない暖かい祖父の手だとアイラは夢心地に思った。
「何があったのか話してくれるな」
 優しい声音で促されるままにアイラはこくりと素直に頷いた。
「王都で、あの方に会いました・・・十六年前に、亡くなられたと思っていたあの方に・・・」
「では胎の子はやはり」
 そう祖父に聞かれてもアイラは驚かなかった。もう自分を偽ることも、ごまかし続けることもできないと悟っていた。きっとナルサスはもう感づいているだろうなと思った。
 それでも直接言い正すことが無かったのは彼の優しさに違いない。
「もう、どうすればいいのか分からないのです・・・! 私があの方のそばにいたいと思うほどに、あの方は遠ざかっていってしまう・・・罪のない人たちを傷つけて、それでもなお王とアルスラーン殿下を恨んで、玉座に執着しています・・・今も、アルスラーン殿下に刃を向けて・・・でも、それなのに、私はあの方を忘れることなんて、できなくて・・・想いを忘れることができなくて・・・この子のことも、」
 憎めるはずなどないのだ。たとえ望んで身篭った赤子でなくても、愛しいと想う男の子どもを恨めるはずがない。この小さな命を守りたい。そう強く思うほどに心が悲鳴を上げている。罪と愛との間で引き裂かれそうなこの心を、どうすることもできなかった。
 涙に声を震わせながら、何度も何度も息を詰まらせてしゃくりあげる孫娘を、バフマンは静かに見守っていた。
「お前はずっと、ヒルメス王子のことを想い続けていたのだな」
 アイラがヒルメス王子の許嫁であった期間は、十に満たない歳の頃のほんの少しの間だけだった。その頃は王子を好いていたとしても、彼が亡くなってからもう十五年以上も経っている。だからこそ、孫娘が未だに王子を慕い続けていたとは思いもしなかった。
 王子が亡くなってすぐ、療師になりたいと言い出した孫娘を半ば勘当する形で追い出した。それから十八歳に成長した孫娘を王都に呼び戻すまで、会うこともほとんどなかった。再会した日、記憶の中の幼かった孫娘は大人の女性に成長し、立派な療師として一人で地に立っていたから、もう過去の悲しみを克服したのだろうと安易に思い込んでいたのだ。
 しかしそれは間違いだったのだと、バフマンは今痛切に思い知らされた。
 バフマンは、一途にひたむきで優しすぎるこの孫娘が、心から幸せになれることを願わずにはいられなかった。

 アルスラーン一行がペシャワール城に入ったのは日が高く登り切った頃のことである。
起き上がるには心もとない孫娘が、それでも殿下に挨拶をすると言って聞かないのをどうにか諌めたバフマンは、自分も複雑な思いを隠しきれないまま王太子に謁見した。
 アイラはどうしたのかと尋ねるアルスラーンに、ナルサスとキシュワードが体調を崩して休んでいる旨を伝えると、王太子は素直に納得し心配している様子だった。
 一夜経って、旅の疲れを癒したアルスラーンは、ダリューンとナルサスを伴に連れ、バフマンの部屋を訪れた。部屋にはすでにキシュワードと千騎長たちが集まっている。これからの進路を話し合うために会議を行うのだ。
 けれども、その会議で強硬派を訴える若者たちの言葉に反論したバフマンは、憤りを感じてその場を退いていった。その老公の背をナルサスの鋭い目が追いかける。キシュワードやダリューンは、自分たちの知る老齢でも雄々しい万騎長との違いに困惑を隠せない様子だった。
 肩を落としたアルスラーンが仕方ないと立ち上がろうとすると、バフマンが出て行った扉からアイラが姿を現した。
 ゆったりとした内着に薄手の衣を羽織った姿のアイラは、普段は結い上げている亜麻色の髪を下ろしているせいか、いつも以上に柔らかい雰囲気を纏っている。けれどもその表情は固く、神妙そうに口を引き結んでいた。
「祖父が無礼を働いたようで、申し訳ありません・・・」
「いや気にしていないよ、私が未熟者だからバフマンは諌めてくれたのだろう。それよりもアイラ、体調はどうなのだ? まだ顔色がうかばぬように見えるが・・・」
 その問いを曖昧に微笑むことでごまかしたアイラは、険しい面持ちのままアルスラーンの前に跪いた。アイラが彼に対し膝を折るのはこれが初めてのことだった。
案の定アルスラーンは唖然とアイラを凝視している。
「アルスラーン殿下、改めて殿下にお話しなければならないことがあります。一身上の問題ですが、祖父バフマンにも関わりあることにございます」
「それは・・・ともかく場所を変えよう。二人の方が話しやすいのだろう?」
「そうしていただければ幸いです」
 アルスラーンと共に部屋を後にする間際、ナルサスと目を合わせたアイラは小さく微笑んだ。
 後に余韻を引く、悲しい微笑みだった。

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