「リンドウの花を君に」

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 パルス東方の国境を堅固するペシャワール城砦を、夕暮れの赤い光が照らしている。もう間もなく日も沈み、空には月が上がり、夜の静寂が訪れることだろう。
 昼の熱さも休まり、心地良い風が吹く城壁の石畳の上をアルスラーンと共に歩きながら、アイラは城壁の外に広がる広大なパルスの大地を見渡した。
「王都の城壁から見える景色も好きだが、ここからの景色も素晴らしいな」
 アイラと同じように眼下を仰いだアルスラーンは、眩しそうに目を細めて呟いた。
「はい。世界はとても広うございます。緑の大地、砂の大地、そして遥か大海がその大地を取り巻いています」
「アイラは海を見たことがあるのか」
「はい、療師の修行をしていた頃、様々な場所を巡りました。船で絹の国に参ったこともございます」
「ほう。ダリューンも彼の国に行ったことがあると言っていた。私も一度見てみたいものだ」
「殿下の目に見えないものはございません」
 満天の星が輝く夜空の瞳を見つめてアイラが言う。曇りのないまっすぐなその瞳が、アイラにはひどく眩しく感じられた。
 アルスラーン殿下は優しく慈悲深い心の中に、大道を歩む王としての資質を合わせ持つ方だ。そう確信したからこそここまで付き従い、そして今ずっと秘密にしていたことを打ち明けようとしている。
 ダリューンとナルサスが自らの主君と認め、忠誠を誓うこの王太子を、自分も信じようとアイラは思った。
「アルスラーン殿下、私は殿下に隠していたことがございます」
 その時だった。刹那、空気がぴりりとした緊張を孕んでたわみ、アルスラーンとアイラの背筋を凍らせた。
 はっとして背後を振り返ったアイラは、そのまま金縛りにあったかのように動けなくなる。目を見開いて肩を震わせるアイラの隣で、額に汗を浮かばせたアルスラーンが短剣の柄に手をかけた。
「そこにいるのは誰だ!?」
 アルスラーンの誰何する声を聞くまでもなくアイラには影に潜むその姿をはっきり見分けることができた。
 間違えるはずがない。誰よりも、何よりも、“望んでいた”人なのだから。
「部下も連れず無用心なことよ」
 唸るような低い声が耳朶を打つ。凍てついた銀の仮面は不気味に煌き、口元に浮かぶ嘲笑が見る者をぞっとさせる。ダリューンやキシュワードに劣らない長身の体躯に均衡のとれた四肢。腰には多くの人を殺めて来たであろう長剣をさしている。
 アイラは無意識に息を呑んだ。それでも震える体を叱咤してアルスラーンの前へ進み出る。銀仮面卿とアルスラーンの間に割り入って、目の前の仮面をまっすぐに見つめたアイラは静かに言った。
「お下がりください、アルスラーン殿下」
 銀仮面卿は喉の奥で不敵に笑う。そして滑稽だと言わんばかりに顔を歪める。けれどもアイラの目には仮面に隠れたその瞳が悲しみに揺れたように見えた。
「殿下だと? お前はその簒奪者の小倅風情を殿下と呼ぶのか」
 胸の奥がじわりと痛む。それでもアイラは毅然と立ちふさがった。
「この方を殺してはなりません」
 貴方自身のために。アルスラーン殿下を殺してしまえば、もう本当に、今度こそ戻れなくなってしまうとアイラは思った。ヒルメスのために、自分が愛しい人を失うことのないように、この場所から退くわけには行かない。
「銀の仮面―! ナルサスが言っていたルシタニアの軍師か!? いったいどうやって!?」
 アルスラーンが唖然とつぶやき、それでも猛然と剣を抜き構えるのをアイラは両手で制する。
「殿下、ここは任せてお逃げください」
「アイラ!?」
「アイラよ、まだその小倅やへぼ画家たちに騙されているのか」
「騙されてなどおりません。私は自分の意思で彼らと共にここまで来たのです」
「お前は、俺を裏切れないはずだ・・・そうであろう? アイラ」
 背後でアルスラーンが戸惑っている様子が手に取るように分かる。アイラと銀仮面卿が見知った仲だと知っているのはダリューンとナルサス、そして祖父のバフマンのみだ。その上、目の前にいるヒルメスに、アイラが己の子を身ごもっていることなど知るはずもないことだった。
 極度の緊張からか目眩を起こしたアイラは、頭を振って辛うじて意識を保たせる。ここで倒れては最悪の事態に陥る可能性が高い。どうすれば、二人の王子を救えるのか。考えろと自分に言い聞かせたアイラの目の前で、ヒルメスに向かって鋭い矢が突きこまれた。
 瞬時に抜刀し矢を叩き切った銀仮面卿は、新手の登場に舌打ちして身を翻す。
「アルスラーン殿下!!」
 短剣を手にしたファランギースが、長い黒髪を翻して銀仮面卿に躍りかかる。二人は数手打ち合ってファランギースの短剣は銀仮面卿の長剣に押し返された。普段は大人の男にも負けを取らないファランギースでも、ダリューンとナルサスを相手に互角の勝負を見せる銀仮面卿には分が悪い。増して接近戦では男女の腕力の差が顕著に出やすいのだ。
 ファランギースを押しのけた銀仮面卿に今度はナルサスの鋭い剣戟が襲いかかった。続いてダリューン、キシュワードと主君の危機に次々と馳せ参じる。銀仮面卿は歯ぎしりしながらも彼らと互角に打ち合い渡り合った。
 鈍く痛み始めた下腹部を片手で抑えつつ、アイラは揺れる視界で必死にヒルメスの姿を追いすがる。止めなければ、手遅れになる前に。その気力だけが彼女を奮い立たせていた。
「今一度問う! おぬしは何者だ!!」
 アルスラーンの声が緊迫する空気に割って入る。ダリューンの剣と肉薄していた銀仮面卿は剣を弾いて距離を取り、アルスラーンを睥睨して皮肉げに笑った。
「俺は先王オスロエスの子、ヒルメス!」
 対峙していたダリューンが驚愕に目を見開く。その一瞬を狙って、ヒルメスは一気に城壁の階段を駆け上がった。ファランギースが応戦するも、激しい剣戟に体ごと跳ね返される。
「なんと甘い! 愚かで哀れな小倅よ!」
ヒルメスは止まることなく一直線にアルスラーンへと剣を振り下ろした。咄嗟のことに身動きが取れないアルスラーンの前に、一陣の風が滑り込んだ。
 一瞬の沈黙の後、ぽたり、ぽたりと血が滴る音がその場の緊迫した空気を微動させる。アルスラーンの前に身を投げ出したアイラは、引きつったようなぎこちない息を吐き出した。
 彼女の目前でヒルメスの剣先はぴたりと止まっていた。その剣から滴り落ちる血はヒルメス自身のものだった。自分の剣筋に割って入ったのがアイラだと気づいたヒルメスは、咄嗟に自らの剣を素手でその勢いを殺したのだ。
 気の抜けたアイラの膝ががっくりと崩れ落ちるのを、ヒルメスは腕を伸ばして受け止める。周囲の者は驚きに言葉も出ないまま、銀仮面卿とアイラの姿を凝視していた。
「なぜだ、なぜ邪魔をする・・・アイラ」
 絞り出すような痛々しい声音に、アイラはヒルメスの腕の中で緩慢に身をよじらせる。
 すっかり冷え切った手を傷跡が残るヒルメスの頬に伸ばして、アイラは力なく小さく微笑んだ。
「貴方様の、ために・・・私は・・・私には、貴方を失うことなど、」
 耐えられない。きっと彼を失えば、自分は生きていけないだろう。絶望と虚無の中で生きることを諦めてしまうだろう。心が、体が、自分の何もかもが、彼に生きていてほしいと願っている。
「アイラ・・・!」
「ヒルメス様、どうか、もう・・・っ」
 アイラの手が力なく滑り落ちる。言葉を詰まらせたアイラの頬を涙が伝った。
 その細い体を掻き抱くように抱きしめたヒルメスは、しかし次の瞬間には愛しい人を自ら手放した。
 ペタリと地面に下ろされたアイラは、放心したようにヒルメスを見上げる。その顔からみるみる内に血の気が引いていった。
「もう遅い。何もかも・・・!」
「ヒルメス様―っ!」
 ヒルメスは背後を振り返り、白刃が迫っているのを捉えると外套を翻して城壁の外へと飛び出した。
「殿下!! アイラ!!」
 追いついたダリューンが剣で追いすがる。銀仮面卿の背後を取ったダリューンがその腕を振り下ろすのを待たずに第三者の声がそれを遮った。
「殺してはならん!! あの方を殺せばパルス王家の正当な血が絶えてしまう!!」
 バフマンの悲痛な叫びがダリューンの剣勢を殺した。銀仮面卿は終ぞ逃げ遂せた。

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