「リンドウの花を君に」

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 その場に居合わせた者たちの中でアルスラーンだけが、崩折れたアイラを掻き抱く銀仮面卿の姿を正面から見ていた。
 アルスラーンが銀仮面卿の姿を見たのはこの時が初めてである。大将軍バフリーズを惨殺し、ダリューンとナルサスの両名と互角に渡り合うルシタニアの軍師。流血を厭わない非道で手段を選ばない残忍な人物。旅の途中で聞き知ってきたその醜聞に、アルスラーンは疑問を抱いた。と同時に、その醜聞が明らかな誤りであったことを知る。
 何よりもアルスラーンを動揺させたのは、アイラを抱きしめてその名を呼んだときの銀仮面卿の姿である。仮面に隠されていてもひしひしと伝わってきたそれは、ただの「情」と呼ぶには強すぎて、「愛」と呼ぶには危ういものに感じられた。
 この時のアルスラーンには、その感情の正体が何であるかは分からなかった。
 そしてアルスラーンは、アイラから聞かされるまでもなく悟ったのだ。オスロエスの子ヒルメスと、アイラの間には誰も立ち入ることのできない縁があるのだと。
 アイラの悲痛な声と瞳が今も脳裏に焼きついている。
「貴方様のために」
 その言葉が何よりもアイラの心情を雄弁に語っていた。
 アルスラーンはそのことを誰にも離さず、自らの心にしまい込んだ。この先、自分の行く道に銀仮面卿は必ず立ちふさがるだろう。銀仮面卿の出自も、自分自身の出自の真相も、決して見過ごせるものではない。
 だからこそ、覚悟を決めなければならないと思った。銀仮面卿が王位を奪還し、パルスを作り変えるという覚悟をしたように。

 ペシャワール城砦が突然のシンドゥラ軍の国境侵入の対応に追われていたその頃、城砦の一室にアイラは寝かされていた。銀仮面卿との邂逅から一夜明けた今も、未だアイラが目覚める気配はなかった。
 ヒルメスが去った後、意識を手放したアイラはすぐに軍医によって診察された。
「今しばらくは安静が必要不可欠でしょう。これ以上無理をすれば子にも障りが出ます」
 渋い顔でそう口にした軍医に誰もが口をつぐむ。アイラが銀仮面卿の子を身ごもっているという事実を知っていた者も、知らなかった者も、同じように複雑な思いを抱いていた。
 城壁で皆が目にしたヒルメスとアイラのやり取りに加えて、アイラが身ごもっていたという事実はそれ以上内密にできるはずもなく、バフマンの口から真相が語られることになった。
 アイラがヒルメス王子の許嫁であったこと。そして、王都で再会した二人の間にあったこと。それらを話し終えたバフマンは、焦燥の込もった声で続けた。
「私は孫娘が未だ彼の人を想い続けていたことに気づかなかったのです。ですがアルスラーン殿下、どうか孫娘のことをお疑いにならないで頂きたい。あの子には貴方様のことを裏切るなどありえないことなのです」
 バフマンが語るのを静かに見守っていたアルスラーンは彼の言葉にはっきりと頷いた。   アイラのことを疑うつもりは毛頭ない。むしろもっと早くにアイラの葛藤に気づけなかった自分自身を悔いる気持ちだった。
「もちろん。私はアイラを疑ったりしないよ。アイラは私に様々なことを教えてくれた。療師としてもアイラのことを頼りにしている。確かに、銀仮面卿のことはこれから先の対処を考える必要があると思う。だが今はシンドゥラの軍も間近に迫っている。まずは目前の問題をどうにかせねばならぬ。それに私は、アイラからも話を聞きたい。そしてできるならば、アイラが望むようにさせてあげたいと思う」
 むせぶように喉を詰まらせたバフマンは幼い王子の前に跪いた。バフマンには今まで悩んでいた自分が愚かに感じられた。
 この王子は血筋以上に価値のあるものを持っている。人を統べるべき王の器であると確信できる。この王子に尽くして死ねるなら武人としての本懐だろう。
「アルスラーン殿下、貴方様を疑い疎遠したことを謹んで謝罪いたします。どうかこの老骨めに挽回の機会をお与えくださいますなら、私は死力を尽くして貴方様に仕えましょう」
「ああよろしく頼む。バフマンも、皆も心から頼りにしている。私は、祖国を取り戻す」
 ルシタニアとシンドゥラという強敵を前に、アルスラーンは覚悟を胸に刻む。
 それはやがて王となる少年の第一歩だった。

* * *

 心が痛いほどに叫んでいる。
 体が苦しいほどに求めている。
 ああどうか。
 私から、この子から、あの方を奪わないで。
 あの方から幸せを奪わないで。
 たとえ何度拒まれても、私はあの方を愛している。
 絶望の中にあっても、この気持ちだけは確かなものだから。
 私は道を選ぶ。
 もう、未来から逃げることはしない。

 ぴりぴりと緊張をはらんだ静寂の中でアイラは目を覚ました。
 がらりとした部屋には人の気配がない。広いベッドに横たわったまま、アイラは両手を伸ばして小さな命が宿るお腹に触れた。
 けっして平坦とは言えなかったペシャワールへと至る道中で、この小さな命が無事だったことは奇跡だ。そして抜き身の剣の前に身を晒すなど、母親としては失格だろう。
「ひどい母親ね・・・あなたをいたわってあげられなかった私を許して」
 言い聞かせるようにアイラは呟く。閉じた眦から涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
「でも、これからはちゃんとあなたを守るから。もう、あなたから逃げたりしなから」
 手のひらから伝わるこのぬくもりが愛おしくてたまらない。覚悟を決めよう。この命を、守り抜く。愛し抜く。
 けれど。
 だからもう。
「アルスラーン殿下のもとには居られない」
 殿下と友人と、愛しい人と我が子と。天秤にかけられるものではないけれど、けじめは必要だと思うから。
 だから覚悟を決めなければならない。
「望まれて生まれてくるこの子に、どうか神々の祝福を・・・」
 未来は今、動きはじめた。

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