「リンドウの花を君に」

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 銀仮面卿の強襲を受けてから日を置かずして、国境の川を越えて領内へと侵入してきたシンドゥラ軍を迎え撃つべくナルサスの指揮の下、遠征軍が編成された。
 ペシャワールに逗留する二人の万騎長が率いる騎兵二万と直営部隊の歩兵六万のパルス兵の中から精鋭の遠征隊を組織し、キシュワードをはじめ、アルスラーンの主だった臣下たちも、彼らを統率して出陣することとなった。
 補給物資の調達などの準備を整えて終え、城内に整列する遠征軍を窓から眺めていたアルスラーンの前に、ダリューンとナルサスが出立の挨拶に現れる。
「殿下、出撃準備が整いました。行ってまいります」
「そうか……私もやはり出陣したほうが良くないか」
「殿下、今や貴方はこのペシャワールの数万の兵を束ねる身。いちいち御自ら戦場に出られる必要はありません」
「だが……」
「今回は我々にお任せ下さい。必ずや吉報をお届けしましょう」
「うん、分かった。おぬしたちのやり易いようにやってくれ。……私も、私の成すべきことを成そう」
 アルスラーンの心中は複雑だ。戦場に向かう仲間たちを見送って、自分だけが安全な城の中で待っているなど、と焦燥が胸を締め付けるが、アルスラーンには他にも考えねばならない問題がいくつかあった。
 ナルサスが今回の遠征からアルスラーンを外したのは、大将が出陣するまでもないという理由のためではあるが、それだけでないのもまた事実だった。

 明朝、出陣する臣下と兵を労ったアルスラーンは、その足で城の一室で養生するアイラの元を訪れることにした。部屋の前まではバフマン老と同行していたのだが、彼は自分がいない方が話しやすいだろうと、アルスラーンに礼を取ると城の警備へと戻っていく。
 部屋に詰めている侍女に入室の断りを入れ、中から応じる声が上がるのを待って、アルスラーンはゆっくりと扉を押し開いた。
 元来、主君であるアルスラーンがこうした気づかいをする必要はないのだが、これも彼の性分であるから仕方ない。
 最初は恐縮していた下人たちも次第に慣れ、受け入れていった。短い間しか逗留していないが、彼らの中にはすでにアルスラーンのこうした行動を好意的に受け取る者が少なからずあった。
 アルスラーンが部屋に立ち入ると、寝台の上で身を起こし、柔らかなクッションに背中を預けていたアイラがすかさず腰を浮かせようとする。
 それを手で制しながらアルスラーンは言った。
「そのままでいい。私も座らせてもらうから」
「……申し訳ありません、殿下の前でご無礼を」
 恐縮そうに頭を垂れて謝罪するアイラの様子が、どことなくダリューンに似ている気がして、そう言えば、アイラとダリューン、そしてナルサスは幼馴染だったのだとアルスラーンは思い出した。
 アルスラーンはナルサスには面識がなかったが、ダリューンとアイラとは王宮で過ごしていた頃、何度も顔を合わせていた。
 二人とも礼儀正しく、揺らぐことのない信念を持っていて頼もしく思うと同時に幼い自分にとっては憧れだった。
 もう一度、気にしなくていいと言い含めたアルスラーンは、寝台の横に置かれた長椅子にアイラと腰を下ろす。
「体調はどうだ?」
「もう随分、良くなりました。ご心配をお掛けして申し訳ありません」
「いや、これまで旅の間中無理を強いてきたからな。今は充分に休んでくれ」
 ところで、とアルスラーンは口火を切る。
「出陣前にダリューンやナルサスたちとは会えたか」
「はい、二人ともそろって顔を見に来てくれました。ダリューンは相変わらずの剛気で、ナルサスも出陣前なのに飄々としていて、二人とも殿下に勝利を持ち帰ると豪語しておりましたよ」
「それは頼もしいな。私はよい仲間に恵まれている」
「それもひとえに殿下の懐の深さゆえにございます」
 アイラがそう言うとアルスラーンは照れたように意味もなく首筋の髪を撫で付けた。肩口で切り揃えられた銀髪がさらりと流れる。
「そうかな。私はただ、皆に恥じない者になろうとか、皆の思いに応えたいとか、そういうことに必死になっているだけなのだが」
「そのお気持ちこそが大事なのです。殿下は良き王となられましょう」
「そう、なりたいと願っている」
 途端にアルスラーンは重苦しい口調になって顔を俯かせる。アイラはその様子を静かに眺めながら、あの日から一人で考えていたことを思い起こした。そして改めて覚悟を決めてから口を開く。
「アルスラーン殿下」
 星を散らした夜空のような瞳とアイラの翡翠色の瞳が真っ直ぐに交わり合う。
「銀仮面卿のこと――ヒルメス殿下と私の関係について、今まで黙っていたことを謝罪致します」 
「いや、私は責めてなどいないよ。むしろ、アイラには今まで辛い思いをさせてしまったとも思っている」
 身分に境なく常に弱者を顧みることができるこの自国の王太子が、アイラはとても誇らしい。
 だからこそ、ヒルメスが生きていたと知っても、パルスの後継者がアルスラーンであるという気持ちが揺らぐことはなかったのだ。
 パルスの国王には、ヒルメス殿下ではなくアルスラーン殿下が相応しい。それはアイラが療師として、一臣下としての考慮の上で見出した答えである。
 けれども、それは、アイラがヒルメス殿下を蔑ろにする理由にはならないのだ。
 複雑な思いを胸にアイラは続ける。
「いいえ、殿下。貴方様には私を責める権利があります。ヒルメス殿下が犯した罪はパルスの国民全てにとって許されないもの。そのヒルメス殿下についての情報を私が隠していたこと、それは不敬であると罵られても言い訳できないことです」
「だが、アイラも十分苦しんだだろう。旅の最中、誰にも告げることができずに、不安に思っていたのだろう」
「殿下の優しさはどんな武力よりも強いものですね」
 アイラには今目の前にいる王太子が、数ヶ月前に王宮で見た少年と同じ人物には思えなかった。
 アトロパテネの戦での経験は彼を変えた。そうして彼は、これからも変わり続けるだろう。彼を見守る臣下たちに恥じぬように。
 アイラはお腹に掛けられた毛織物の下で、震える手を握り締める。
 今はまだ目立たないが、自分の身には確かに命が宿っている。
 それはパルス王国にとって、アルスラーン殿下にとって、無視することのできないものだ。
「アルスラーン殿下、私は、ヒルメス殿下を裏切ることはできません。どんなに拒まれても彼のそばに行きたいと思います。そしてこの命も……たとえ望んで身篭った子でなくても、私は守り抜きたいと思います。けれどもそれは、パルス王国への、アルスラーン殿下への裏切りに他なりません。だから、私は―――」
「それは違うだろう、アイラ」
 年下の少年が初めて見せたその表情の凄みに、目を見張ったアイラは口を閉ざす。それはあまりにも眩しく鮮烈で、瞬く間に脳裏に焼き付いた。
 追言を許さぬ気迫で、アルスラーンは言い募る。
「母親が我が子を守ろうとするのは当然のことだ。それは誰にも妨げられるべきものではないと私は思う。だから、アイラが私を裏切るということにはならないはずだ」
 王の顔とも呼ぶべきそれを垣間見せたのはほんの一瞬で、アルスラーンはすぐにまた年相応のあどけない表情を見せて微笑む。
 母親の愛情を知らずに育ってきたアルスラーンは、子どもにとってそれがどれほど大切なものであるか痛いほど理解していた。
 だから、誰が何と言おうと、例え彼の父王であるアンドラゴラス王の言葉だろうとも、アイラから子どもの命を奪う権利は誰にもないのだとアルスラーンは思った。
「アイラ、私からも頼もう。生まれてくる命をしっかりと守ってほしい」
 旅の最中からずっとひとりで抱え込んできた重みが、すっと消えていく。
 自然と涙が止めどなく溢れてきて、アイラは嗚咽をこらえるために唇を引き結んだ。
 言葉にならない分、何度も何度も深く頷く。
 震える手でお腹に触れながら、アイラは涙に濡れた瞳でアルスラーンを見た。
「殿下、どうか良き王とお成りください。私はパルスの民のひとりとして、貴方様を誇りに思います」

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