「リンドウの花を君に」

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『アイラ、私からも頼もう。生まれてくる命をしっかりと守ってほしい』
 アルスラーン殿下の言葉は、海のように深く、空のように広い。 それはこのパルスを戴く国王としての覚悟の重さを示してしている。
 自らが王家の血を引いていなくても、それ以上にこの十四歳の少年をパルス唯一の国王足らしめるものがある。
 アルスラーンは戦いを厭い、民や奴隷にまで目を向け、耳を傾ける。
 それを、ただ戦いを恐れる腰抜けだと言う者もいるがそれは明らかな誤りだ。
 この王子は決して腰抜けなどではない。
 武力に頼り切ることなく、国を治め、守るだけの器量がアルスラーンにはあるのだから。そしてそれは誰にでもできることではない。
 それこそが、アルスラーンとヒルメスの間を隔てるものでもあった。

「殿下、私はギランに向かおうと思います」
 しばらくして涙を拭ったアイラは、何かを吹っ切れたような晴れやかな顔をして改めてアルスラーンに向き直った。
「ギラン・・・ギランというと、五年前までアイラが暮らしていたという?」
「はい、ギランには私の師にあたる療師が居ます。それから旧知の者たちも。彼らを頼ります」
 アルスラーンはしばし考え込むようにアイラの言葉を反芻していたが、やがて他ならないアイラの決めたことならばと頷いて同意した。
「分かった。だが、それはアイラの体調が万全に戻ってからだ。それまではここにいればよい。それにこのことをダリューンやナルサスにも相談せねばならぬ」
「殿下……。本当に、ありがとうございます。いずれ、貴方が王となられた暁には必ずや私は貴方に恩を返させて頂きます」
「恩なんて、アイラは私の大切な仲間なのだから。ここまで無事に来れたことや、今までアイラに教えてもらったことを思えば、むしろ恩を返さなければならないのは私のほうだと思うのだが」
 アルスラーンが大人になりきらない少年の柔らかさで笑うと、アイラの心がほっこりと温かくなる。
 戦場に居ても、窮地に立たされても、彼が笑っているだけで誰もが希望を持てるのだ。
 まだ年端もいかないこの少年に、自分たちがどれほど救われてきたことか。
 ダリューンもナルサスも、王族や貴族に対して頑なだったエラムさえも、彼の心に触れた皆がその魅力にただただ感服するばかりだ。
 他ならない、アイラ自身も。
「ダリューンやナルサスたちに比べれば、私の力など微力ですが……アルスラーン殿下、」
「うん?」
「ギランには私の師を筆頭に、百人規模の療師団が存在します。名を、エルアザール療師団と申します。エルアザールの者たちは各国に散らばり、弱い者を守る最後の砦として任務を行っています。師は単一の国や王族や貴族に従わず、人をみな平等に扱い、無償で救うことを誇りとしている……今後もし、殿下が窮地に立たされることがあったときは、どうか私たちを頼ってください」
「だが、エルアザールの者は国や王族には従わぬのだろう? ナルサスが以前言っていた。アイラの師は賢人なのだと。そんなにすごい人が私なんかの味方になってくれるだろうか」
 不安そうに肩をすくめる王子に、アイラはしっかりと頷いた。
「殿下になら、みな協力を惜しまないでしょう。殿下がエルアザールに対し、従わせるという形でなく、願われるのであれば、彼らは必ずやその思いに応えます」
「わかった。覚えておこう。アイラの尊敬する師殿に会ってみたくなった。“人はみな平等”か。――本当に、そんな世の中になればいいと思う」
“人はみな平等”、その言葉はアルスラーンにとって特別なものであることをアイラは知らない。
ルシタニアの少女がかつて言い放ったその言葉は、アルスラーンの中で強く大きな意味を持つ言葉になろうとしていた。
「さて、長居をして悪かった。ゆっくり休んでほしい。――アイラ、くれぐれも無理はしてはならぬぞ?」
 ピシッと指を立て、どこかの黒騎士のような台詞を言い置いたアルスラーンは部屋を退出していった。

 それから数日の間、アイラは祖父であるバフマンと離れていた間の話をしたり、アルスラーンに薬草の知識を教えたりして過ごした。
 アルスラーンの覚えは良く、彼が仲間のために必死に勉強しようとしている姿勢はバフマンや城に残る者たちをいたく感動させた。
 ペシャワールの軍医が所蔵する、パルスに流通する多種多様な薬草を記録した資料に目を通しながら、アルスラーンは隣で実際に薬草を調合しているアイラに問いかけた。
「この薬草は、どのような場所に生えているのだ?」
「自生している場所は限られています。条件は雨の少ない乾燥地帯、日光が十分に当たる場所、それから砂地です」
「砂地?」
「はい。通常の植物には水や土が必要不可欠ですが、この薬草は他の緑が存在しない砂漠、荒野の真ん中でも生き延びることができます」
 数種類の薬草を混ぜ合わせる作業をしていたアイラは、手を止めることもなくアルスラーンが指差す薬草の名前だけを一見すると、その情報をそらんじていく。
 豊富な薬草の知識は、療師にとって必要不可欠なものだ。修行中にすべてを暗記し、実際にその薬草を採取し、観察し、調合し、効能を記録していく作業も経験した。
 いざ現場に立ったとき、多くの知識を持っていることは患者を救うことに直結する。
「そんな植物があるのか・・・」
 聞き入っていたアルスラーンが目を瞬かせる。
 その瞳には子供ならでは好奇心がいっぱいで、アイラはかつて師に教わっていた頃の自分を思い出した。
「この薬草の名も古い言葉で“忍耐”、“強堅”といった意味があります」
「そうなのか。私の知らないことは、まだまだたくさんあるのだろうな」
「少しずつ、焦らずに学んで行けばいいのです、殿下」
「ああ」
 アルスラーンがそう言うとアイラは心から嬉しそうに口元を綻ばせた。
 今だ発展途上であるものの、日々精進し、成長していくアルスラーンの姿をあたたかく見守るアイラは、時折お腹に視線を落としては包み込むように優しく撫でる。
 その横顔は慈愛に満ちつつも、どこか切ない。
 それでも守るべきものを得たからには、絶対に折れてはならないのだと、アイラは自分に言い聞かせた。

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