「リンドウの花を君に」

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(ダリューン・ナルサスside)

 パルス領内に侵攻してきたラジェンドラ第二王子率いるシンドゥラ軍を撃つべく、ペシャワール城から出立したパルス軍はカーヴェリー河へと行軍していた。
 先発したキシュワードに続き、ダリューンとナルサスが率いる兵が夜の街道を抜けて河を目指していた。
「ダリューン、戦場に到着するのはまだ先だぞ」
 夜の進軍の最中、一言も喋らない友を横目で観察していたナルサスがひとつ嘆息して言う。
「分かっている」
 短い答えが返ってきたことで、少なくとも会話をする理性はあるのだと胸をなで下ろす。戦場に使い物にならない騎士を連れて行く趣味はナルサスにはないからだ。
「誰もが恐れる“騎士の中の騎士”は、そんな見境なく殺気を振りまかないものだ」
「……分かっていると言っている」
「分かっていても、考えずにはいられんか。無理もない」
「………」
「パルスの先王オスロエスの子ヒルメス、か。また随分と厄介な男が現れたものだな。まして、アイラがその男の赤子を身ごもっているときた」
 兜を目深かに被ったダリューンの目がより一層剣呑に細められる。視線だけで人を殺せそうなほどである。
 そして、それはあながち検討外れというわけではなさそうだ。金色の眼は確かに脳内でかの男を射殺さんとしていた。
「しかもその赤子は、バフリーズ殿を弑した銀仮面卿の赤子、あるいはパルス王家の直系の血を引く赤子ということになるな……ダリューン、少し殺気を抑えろ。さすがに堪える」
「………」
「さて、お前の本音は? 案ずるな、俺以外誰も聞いてはおらぬ。物騒な言葉でも俺の心のみに留めおこう」
「……今すぐにでも嬲り殺したい」
「それはヒルメスという男のことか? それとも、――赤子のことか?」
 ダリューンが息をのむ。そして一拍置いて、ダリューンは纏っていた殺気を発散させるために深く息をついた。
「――、……もうよせ、ナルサス。俺は殿下にあだなす者への容赦は持ち合わしておらぬが、アイラのことは別だ」
 アイラが守ろうとしている命を自分が殺せるはずもない。そんなことをすれば、一生悔やみ続けることになると、ダリューンは自分に言い聞かせた。
「それにアイラには……生きている命を見殺しにすることなどできぬだろう」
「ああ、おそらく殿下も許されぬ。殿下のことだから、アイラを自ら庇護しようと言い出すだろうな」
 だがその判断が正しいと言えるのは、あくまでもアイラと彼女の子が無害であるうちだと、ナルサスは口の中で続けた。
 ナルサスは一軍を預かる軍師であり、アルスラーンの参謀である。常に客観的に物事を見定めて、時に冷酷な判断を下さなければならないときがある。
 だが“そうする”必要に迫られたとき、ナルサスにそれができるのかは、今のところは分からなかった。
 できればそうならないように願うくらいには、ナルサスの心はアイラに傾いていた。なにしろアイラとは当のヒルメス王子よりも長い付き合いである。
「ナルサス。お前は以前、俺に聞いたな。“もしこの先、アルスラーン殿下とアイラ、どちらしか選べないとしたらお前はどちらを選ぶ”か、と」
「ああ。確かに聞いたな」
 そう問いかけたのはカシャーン城塞でのことだ。体調の優れないアイラに言い知れない予感を覚えてのことであった。
 ナルサスが銀仮面卿の正体をアイラに親しい者だと疑い始めたのもその頃である。
「俺には殿下とアイラ、どちらかを選び取ることなどできぬ。どちらかを選べば、選べなかったほうのことを一生後悔し続けるだろう」
「っ、――それは……」
 友の言おうとしていることを察したナルサスは、咄嗟に返す言葉に詰まる。
「俺はアルスラーン殿下に生涯の忠誠を誓っている。だが、アイラを捨て切ることもできぬのだ。そんなことをすれば、俺は殿下に一生顔向けできなくなるからな」
 今になってようやく、アイラが自分にとってどれほど大きな存在であるかを思い知る。
「今までずっと気付かぬふりをしていた。アイラの目はいつだって俺を男として見ていなかったからだ」
 ダリューンは自らの顔を隠すように馬首ひとつ分、友の前に出た。これから戦場に赴くのに情けない姿は晒したくはない。
「アイラがあの男に再会する前にこの想いを伝えていれば、何かが変わっただろうか……」
 そう言いながら、それはきっとあり得ないことだとダリューンにも分かっていた。
 アイラが追いかけ続けているものは昔も今も変わらない。療師になろうと決心したことも、すべて自分ではない他の男のために他ならない。
 王都で無体をされて意識を失ったアイラを抱き上げたとき、彼女は誰かの名前を呟いていた。今思えば、それもあの男の名だったのだ。
「アイラの心が変わることがなくても構わない。アイラがひたむきで真っ直ぐのは誰よりも良く知っているからな。だから、」
 カーヴェリー河の開けた岸辺とシンドゥラ軍の姿がそろそろ見えようかという所で、ダリューンは愛馬の手綱を引いて歩みを止める。
 隣に友が並ぶのを待って、もう一度口を開いた。
「あの男が己の復讐とアイラを天秤にかけて、アイラを見捨てるような男であったなら……そのときは、この俺が叩き斬る」
「ふむ……パルス随一の騎士にそこまで言わしめるあの御仁も相当だな。あと、やはりアイラは滅多にいない良い女だな。お前を蹴る女はパルス広しと言えどもアイラくらいのものだ」
「ここまで言わせたのはお前だ。この戦いが終わったら、やけ酒にでも付き合えよ、ナルサス」
「ああ。傷心の友を慰めてやろう。なんなら未来の宮廷画家たるこの俺が描いた絵も授けよう!」
「それはいらぬ!!」
「なんだと!? 罰当たりな男め。帰ったら容赦せぬ」
 だがまずは眼前の敵の相手をしよう、とナルサスは前を見据える。
 すでに先鋒のキシュワードの軍が突撃して、周囲には粉塵が舞い、怒号が行き交っている。シンドゥラの大軍を見てもパルスの双璧が狼狽るわけもなく、俄然奮起するのは騎士と軍師の性だ。
 気を引き締め直したダリューンは、右手に構えた槍の切っ先を真正面に突き出す。
 胸に渦巻く様々な未練を断ち切るように一呼吸おいて、愛馬の両脇を足で蹴って勢いよく駆けさせた。
「ヤシャスィーン!!!!」
 戦場に轟く号令と共に軍馬の嘶きと蹄の音が大地を震わせる。パルス最強の男が率いる騎馬隊を遮れるものはなかった。

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