「リンドウの花を君に」

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 有事の混乱を避けるため、また体調を考慮して、ラジェンドラから遠い席に腰を下ろしていたアイラは、上座に座る他国の王子と極力目を合わさないように努めていた。
 先ほどからアイラの右隣に座るファランギース共々、過剰な視線を投げかけられていることは気のせいだと思いたい。
 ファランギースに向ける視線は熱っぽく、彼女の美貌がシンドゥラでも際立つことを証明していた。一方のアイラに向けられるのは、疑るような視線である。
 アイラはその理由に覚えがあった。
 実は、アイラはラジェンドラ王子と面識がある。王都に戻る前までアイラが所属していたエルアザール療師団から派遣され、何度かシンドゥラにも足を運んでいた。
 アイラの師は、王族や貴族の庇護や干渉は受けないながらも、多くの者たちと面識があったため、シンドゥラの国王カリカーラとも謁見する機会があった。
 ゆえに師に同行することが多かったアイラが、ラジェンドラに顔を覚えられていてもおかしくはないのだ。
「あの掴み所のない王子様、アイラ殿のことを随分熱心に見ているようだが、やはりアイラ殿の美貌に見とれているのかな」
 ファランギースとは反対側の隣に座るギーヴが葡萄酒の杯を傾けながら軽言する。
「違いますよ……ギーヴ殿、そう言うことはファランギースに言って下さい。私は美人ではありません」
 アイラの心底呆れた様子にギーヴは微苦笑を浮かべる。アイラが自分の容姿に無頓着であることはすでに知っている。
 しかし、どう考えても彼女は凡人ではない。アイラは自分自身を過小評価しすぎなのだ。
「謙遜されることはありませんぞ、アイラ殿。ファランギース殿が誇り高い薔薇の花ならば、アイラ殿はしたたかに凛とした白百合の花。どちらも魅力的でお美しい!」
「お上手ですね、ギーヴ殿は。貴方に口説かれて落ちない女性はファランギースくらいでしょう」
 これは完全に脈なしだ。もともと期待はしていなかったものの、男に対して難攻不落、実に見事な潔癖さを見せるアイラの反応に、ギーヴは笑いをこらえて喉を鳴らした。
 ひとりの男のことを健気すぎるほど一途に慕うアイラの心が、他の男に向けられるはずもない。
 ギーヴはふと、アイラの腹部に目線を落とした。
 ギーヴ自身は王都の地下道で銀仮面卿と相対したことがある。その時の印象は色恋とは無縁そうな男だと思ったのだから、ギーヴの予想は見事に裏切られたというわけである。
 最初は弱いアイラに銀仮面卿が無体をしたのかと思っていたのだが、ペシャワール城に奇襲をかけてきたときの銀仮面卿はどう見ても、アイラに気がある様子だった。それも、強い情を抱いているように見えた。
 同時にウードの切ない調べにのせて歌い継がれる悲恋の詩のような愛が、現実に本当に存在するのだと驚きもした。
 アイラと銀仮面卿の運命の行く先を、ギーヴは見守りたいと思っていた。
 こんなに悲しく切ない恋物語に吟遊詩人としての血が騒がないわけがなかった。


「この酒はなかなかいけるぞ。シンドゥラにはない味わいだ」
 先ほどまで荒縄に縛られていたことなど忘れたかのように上機嫌なラジェンドラが、葡萄酒を一息にあおって言う。
「それにしてもまだ子供と聞いていたが、先ほどは見事な采配だった。感服したぞ、アルスラーン王子」
「いえ、私は何もしておりませぬよ。仲間たちに助けられてばかりです」
 アルスラーンは心の底からそう思っていた。
「臣下ではなく仲間か、つくづく面白い男よの。ささ、おぬしも飲め飲め」
 漸うとラジェンドラがアルスラーンに差し出した杯を横合いから割って入った白い手がつかみ取る。
「貴方のお相手は私がしよう」
 願ってもみない美貌のパルス女性の登場に浮足立つラジェンドラの隣に、もう一人割り込む影がある。言わずもがな、ギーヴである。
「おおっと、俺も混ぜてもらおうかい。酒の肴に楽師の詩はどうだい?」
 三人はそろって見事な飲みっぷりを発揮し、うち二人は下心をもって美女を酔わせようと躍起になったが、アシの女神に愛された美貌の女神官がその悪しき手にかかることはなかった。
 いささか疲れるラジェンドラの相手をギーヴとファランギースに任せ、手の空いたアルスラーンはそそくさとアイラのほうに移動する。
「いや、三人に付き合っていたら私は瞬く間に倒れてしまうだろうな」
 酒に弱い自覚があるアルスラーンはそんな無謀なことはしまいと苦笑しながら、アイラの隣に腰を下ろした。
 宴は無礼講なので、アルスラーンが下座に下りてもさほど問題はない。
 ダリューンやナルサスたちはいつ何時も事が起こらないように警戒を怠らないだろうが、他の者たちは悠々自適に酒を飲み、豪華な食事にありついていた。
「お疲れさまでした、殿下。ラジェンドラ王子のお相手は大変でしょう」
「ああ、アイラに聞いていた通りだった。でも、私はラジェンドラ殿のことが嫌いではないかな」
 苦笑しながら言うアルスラーンの様子に、アイラは柔らかく微笑み返す。
 アルスラーン殿下は相手の悪い所よりも良い所を探すことができる。
 それは誰に対しても対等に真摯に向き合おうとする殿下の度量の広さに他ならないと思った。


 夜も随分更けた頃、アルスラーンは再び席を立った。王太子らしく毅然とした面持ちのアルスラーンがラジェンドラのもとに向かうのを見届けて、アイラもまた席を立って宴を抜け出した。
 人気のないペシャワール城塞の廊下は閑散としていて、凍えた夜風が吹き晒してくる。
 お腹を冷やさないように上着を引き寄せて、ふと中庭に目をやるとエラムとアルフリードが何やら言い争っている姿が見える。
 風にのって切れ切れに届く声から察するに、どうやらナルサスのことについてもめているようだ。言い争いながらもどこか楽しげな少年と少女の様子にアイラは頬を緩ませた。
 どうしてか、何の気兼ねもなく思ったことを言い合える二人が羨ましいと感じた。
 きっと、ずっと昔の、自分たちを見ているようだったから。
 身分や立場に左右されずに好きなことを言い合って、怒りあって、笑いあえる。そういう関係がきっととても幸せだったのだと今になって思う。
 夜空に浮かぶ月をみつけると、あの人を思い出す。そうして今は遠くにいる彼をひとり想うのだ。
 さみしいのだと心のどこかで自覚していても、それを言葉にすることはしない。
 アイラはただ静かに淡い月明りを眩しげに眺めた。その頬に伝うものに気付かないふりをしながら。

 この夜、パルスの王太子アルスラーンと、シンドゥラの第二王子ラジェンドラの間に盟約が結ばれた。

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