「リンドウの花を君に」

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 ―――パルス歴三二〇年一二月。
 万騎長キシュワードにペシャワール城の守備を任せたアルスラーンの一軍は、同盟を結んだラジェンドラ軍と共にシンドゥラへ向けて出陣した。
 鎧を纏った姿で騎乗した彼らを見送ってから、時を開けず、旅商人に扮したアイラもまたペシャワール城を去る。
 未だルシタニアの支配が及ばないパルスの港街ギランへの旅路である。
 身重の体を重んばかり、休み休みの行路ではあったが、アルスラーンが付けた護衛の二人に加え、祖父であるバフマンの同行がアイラを勇気づけた。
 バフマンは老齢とはいえ、未だ現役の万騎長である。はじめはシンドゥラへの出陣を望んでいたバフマンだったが、アルスラーンの願いもあり、こうして孫娘に付き添うことになった。
「おじい様、やはりアルスラーン殿下に随行なさりたかったのでは……それを私のために……申し訳ありません」
「お前のためではないぞ。アイラよ。わしはアルスラーン殿下のご意思でここにおる。これも立派なお役目だ」
 そう返事を返しながら、バフマンは孫娘の顔色を見てそろそろ休息をとらせるべきだと考える。馬に揺られるだけでも体力は削られていくものだ。
 随行する護衛二人に目配せしたバフマンは、手綱を引きながら馬の背中を叩いた。
「そろそろ馬を休めねばならんな。お前も少し休むといい」
「……はい」
 アイラは自身が気遣われていることも、足手まといになっていることも痛いほど分かっていたが、それでも今は彼らに頼るしかない。
 武術に長けた祖父と護衛たちが同伴してくれていることに心強さを覚える。
 彼らの助力のおかげで、ギランまで後半分の距離まで何事もなく無事に済んでいた。ルシタニアの支配はまだ南方に及ばず、また、懸念していた山賊といった類も鉢合わせていない。
 これに関しては、ナルサスに付いてきたアルフリードの尽力によるところも大きい。
 ゾット族の頭の娘という彼女は、道中が安全であるように、山賊が出にくい場所や襲われにくい恰好などをよくよく教えてくれた。
 本当に気が利く娘で、持ち前の明るさで気落ちしがちだったアイラを楽しませ、様々なことを語り聞かせてくれた。
 山育ちの彼女は、王都の女たちよりも日焼けしていたが、それでも整った顔立ちをしていて、粗雑なところもあるがそれ以上に誰に対しても面倒見の良い娘だ。
 アイラは半ば本気で、アルフリードがナルサスの妻に相応しいのでは、と思ったのが、これは理屈っぽい建前を並べ連ねる幼馴染に全力で否定された。
 ナルサスのような自由人には、嫋やかな姫よりも彼女くらい姐さん気質の娘のほうが合っているように思うのだが、とダリューンに言ってみれば、彼のほうは心底楽しそうに同意してくれた。
 もっともダリューンの場合、親友をからかっている歩合のほうが多そうではあったのだが。
「この分だとあと二日ほどでたどりつけそうだな」
 護衛の青年一人が地図を片手に言うのを聞いて、木に寄りかかっていたアイラは無意識にお腹を撫でる。
 あと二日。あと二日何事もなく、無事に済んでほしい。
 ふくらみはまだ目立たないものの、今はもうはっきりとその存在を感じられるようになった。体調不良を感じて曖昧にその可能性を考えていたときよりも、より実感して息づく命を身近に感じる。
 先のことを考えると言い知れない不安に駆られることもあるのだが、それでも決心したアイラは心を強く持っていたいと思っていた。
「お加減はいかがですか、アイラ殿」
 地図を畳みながら、活発そうな印象の青年がこちらに歩いてくる。聞くところによると、彼の歳はアイラよりも五つ年上で、考えるとダリューンよりも年上なのだが、人懐っこい印象がどうにも実年齢よりも若く見せている。
 彼はバフマン直属の千騎長の副官を務めているという。ちなみに、今バフマンと言葉を交わしている壮年の護衛がその千騎長である。
 アイラは青年の気遣いに微笑み返した。
「休んでいたら良くなりました。もう大丈夫ですよ」
「あまりご無理はなさらぬよう。ああおっしゃられていても、バフマン卿は貴女のことが心配でならないのです」
「ええ、分かっています。祖父には今までも散々心配をかけてきましたから。あまり親孝行な孫娘ではないのです」
 そんなことはないと首を振る青年に、改めて礼を告げたアイラは、ゆっくりと立ち上がった。
 ふと青年の視線を腹部に感じて首を傾げる。
「どうかしましたか?」
「ああ、すみません。ご無礼を」
「いえ、そういうつもりで言ったのではありません」
 気まずげに首の後ろに手をやった青年は、実は、と言いつつはにかんだ。
「自分にも妻子がおりまして。妻が二人目を授かったと知らせを寄越したばかりでしたので」
 それはもちろん初耳のことだった。驚いたアイラはそれでも嬉しそうに話す青年に丁寧な祝いを述べて、それから神妙な面持ちになる。
「奥様のそばにいて差し上げたかったでしょうに、旅に付き合わせてしまって……」
「いえとんでもない! ――これも任務です。立派に勤めを果たすのもパルスの軍人としての誇りですから。ですからどうぞ、そのように気をもまないで下さい」
 それに、と目を細めて青年は続けた。
「任務を途中で投げ出して帰っては、きっと家に上げてもらえません。情けないことに自分は家内に頭が上がらなくて……それに娘にも格好悪いところは見せられませんから!」
 彼はきっといい夫であり、父親なのだろうとアイラは思った。
 胸の奥が針で突かれたように痛くなる。じくり、じわりと広がろうとする痛みに刹那息を詰めて、それでも決して弱音は吐きたくなかった。
「アイラ、そろそろ発てるか」
 アイラの気まずさを見計らったかのように、バフマンの声がかかる。ゆっくりと息を吐き出してから、はっきりと頷いた。

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