「リンドウの花を君に」

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 ギランまでもう少しの距離に迫ったとき、怖れていた事態が起こった。
 鬱蒼とした森を抜けて街道に抜けようというその時、身を崩した者たちに行く手を遮られて立ち止まる。
 山賊とおぼしき者たちの数は十人程度だ。
 表向きは旅の商人を偽っているため、バフマンと護衛たちは各々隠し持った武器の場所を確認しながらも、表向きは怯えたふうを装って従順にふるまう。
 アイラは彼らの後ろで、固唾を呑んで成り行きを見守るばかりだ。
「じいさんたち、怪我したくなければその荷物をこっちへ寄越しな」
「あ? 頭ぁ、女がいるぜ! それも飛びっきり上等そうなヤツが」
「ほかのヤツは殺しちまって、商品と女だけ戴いてかえりましょうぜ」
 黄ばんだ歯をちらつかせ卑下た笑みを浮かべる賊たちに、表向きは老父を演じているバフマンの目の色が変わる。
 万騎長の放つ殺気を感じ、パルスの精鋭たちも互いに目配せを交わし合う。青年がゆっくりとアイラの傍に移動してきた。
 統率の取れたそのやり取りに、驕った賊たちは気付かない。
「頭ぁ、さっさと終わらせちまいましょう!」
 所々刃こぼれし、錆が目立つ湾曲した剣を掲げて、ひとりの賊が襲い掛かってくる。
 ひとりの男の剣がバフマンの頭上に振り下ろされようとしたその瞬間、鞍の脇に隠していた鋭い刃が抜き放たれて、その剣をはじき返した。
 まさか剣戟を止められると思ってもいなかった賊は、呆気に取られて立ちすくむ。その隙に、バフマンは造作もなく剣を操り賊を仕留めた。
 バフマンが前線ではなく城の守備を任されたのは彼が老いた身であるからではない。まして万騎長の名は過去の栄光を誉めるための称号でもない。
 護衛二人もいつの間にか各々の武器を手にしている。それを見て賊たちはようやく老父の一行が商人ではないことを悟った。
 だが、時すでに遅かった。
 賊ごときがパルスの万騎長と精鋭兵に叶うはずもなく、襲い掛かるごとに次々と仕留められていく。
 ところが立っている賊があと数人に減ったとき、思わぬ出来事が起きた。
「ぐっ、あぁ!!」
 バフマンらに背を向けて逃げようとしていた賊にどこからともなく飛来した短剣が突き刺さって、男が倒れる。
 短剣は寸分の狂いもなく心臓を一突きし、男に痛みに喘ぐ暇すら与えず絶命させた。
 その技の的確さを見せつけられたバフマンにも緊張が走る。
 汗が滲む手で剣を構え直したその目の前に、見知った男が外套を翻して割り入った。
 硬質そうな黒髪を後ろに流し、素顔を仮面の下に隠している。右手には長剣が握られている。以前に会った時と同じその姿。
 誰もが瞠目する中、アイラは声のない悲鳴を上げた。
「……ヒルメス様――っ」
 振り絞ったその声は掠れて、音にならない。しかし一瞬だけ、けれども確かに、仮面の下の視線はアイラに注がれた。
 氷のように冷たい視線に貫かれて、息を詰めたアイラが膝から崩れ落ちる。傍に控えていた青年がその体を慌てて支える。
 続いてもう一人、賊を切って現れた長身の影に、正気に戻ったバフマンが唸るように叫ぶ。
「おぬし、サームか……!」
 王都で戦死したものと思っていた同胞の姿がそこにあった。
 そうしている間にもヒルメスの剣がひとり、またひとりと賊を殺めていく。非情の剣はどれも首を一突き、一陣のもとに惨殺せしめる。
 鈍らないその剣先が、今はわずかに苛立ちを孕んでいるように思え、バフマンは困惑した。
「これは一体どういうことか、」
「……バフマン老。おっしゃられたいことは山とありましょうが、今はどうか堪えて頂きたい」
 サームの畏まった口調は記憶に残るものと寸分変わらない。バフマンは険しい面持ちを変えないまま、しかし孫娘の身を案じて背後に下がる。
 青白い顔でぐったりとくずれ、青年に支えられた状態の孫娘の傍らに膝をつく。
「バフマン卿、アイラ殿をすぐに休ませねば」
「アイラ、しっかりせよ」
 自分を呼ぶ祖父の声にかろうじて頷き返す。
「ヒルメス様……」
 血の気を無くした唇から、ぽつりとこぼれ落ちた響きを聞いて、バフマンが痛々しい面持ちになる。
 アイラはただ呆然とじっとヒルメスの姿を見つめたまま、身じろぎひとつせずに瞠目していた。
「バフマン卿、アイラ殿!」
「―――アイラ……」
 緊張を孕んだ護衛の声を、刃のように鋭く尖った低い声が遮る。
 血糊を払った剣を静かに収めたヒルメスは、黙然とアイラの目の前に膝をつく。
 仮面の向こうで、感情を押し殺したような鋼鉄の瞳が一瞬揺らめいたように錯覚する。あるいは、そうであってほしいと望む気持ちがそう見せたのかもしれない。
 アイラを支えていた青年が、ヒルメスの気迫に息を呑む気配がした。それでも役目を心得ているのか、退くことはない。
「殿下……、」
 思わずといった様子でその名を呼び、バフマンが声を震わせる。
 その声が聞こえているのか、そうでないのか、それには答えず、ヒルメスはおもむろに手を伸ばした。
 時が止まったような沈黙の中、アイラの体がヒルメスの腕の中に収まる。
 びくりと硬直する細い肩を慰めるように抱いて横抱きに抱え上げ、ヒルメスは慎重に立ち上がった。
「――サームよ、あとは任せる」
昔にも増して抑揚のない声。覚えているよりも低い声。それでも懐かしい、愛して止まない人の声。悲鳴を押し殺したアイラは、なりふり構わず目の外套に縋った。
 祖父の呼び留める声がする。それでも衝動は止まらない。
「ヒルメス、さま――!」
 何度も何度も心の中でその名を呼び続けた。夢にまで乞い続けていた。そのたびに現実に戻り、孤独を感じ、絶望を感じ、それでもあきらめきれなかった。
 今、目の前にその人がいる。呼びかけに応じる声がある。
 差し出された手を、抱かれた肩を、振り払うことなど出来ない。手放すことなど考えられない。
「迎えにきた……アイラ、共に来い」
 ああ、その言葉をどれほど待ち望んだことだろう。
 ――そして、その言葉に応えることができたら、どんなに良かっただろう。
 それでも今はもう、その望みを叶えられないのだ。
 広い肩に縋りながら、胸が切り裂かれる思いがした。

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