「リンドウの花を君に」
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我が身ひとつなら、彼の望むままにその手を取れただろうか。
罪の意識も、仲間を裏切る気持ちもぜんぶ飲み込んで、その手に縋りつけただろうか。
予期せぬ遭遇に誰もが驚きと混乱を隠せず、呆然としていた。そうしている間にも、ヒルメスは毅然とした足取りで歩みを進める。
どうやら遠目に見える、愛馬を繋いだ木立ちを目指しているらしいとアイラはどこか他人事のように考えた。
腕に人ひとりの重さを抱えていても彼は小揺るぎもしない。記憶にあるよりもずっと逞しい腕。広い背中。……冷たい視線。冷たい声。
ふいに言い知れない恐ろしい疑念が沸き起こる。
“この方は本当に自分の知るヒルメス殿下だろうか”
“もしかしたら、思慕の心が見せた幻覚なのでは……”
そんな馬鹿げた考えがよぎる。まるで、現実に思えない事態に脳が考えることを放棄するかのように。
無理のないことかもしれない。本当に夢を見ているようだったから。
――彼の、心臓の音が聞こえる。
揺れる腕の中で、アイラは目を閉じて震える息を吐きだす。目頭が熱くなる。
――生きている。生きて、私を迎えにきてくれた……
ペシャワールの城壁でアイラが伸ばした手は冷たい視線と背中に拒絶された。もう見捨てられたのだと思っていた。
それは間違いだったのだろうか。
揺れがおさまる。ふわりと軽い浮遊感を感じて瞼を持ち上げると、地面に下ろされた後だった。
アイラはそこでやっと現状を思い出した。
「ヒルメス、様……あの、」
「共に来い」
それに対してアイラが何事かを答える前に、ヒルメスは何かに気付いたように剣呑な面持ちになる。
「……顔色が悪い」
はっとして目を見開いたアイラは、何と言っていいのか分からずに口ごもった。
ヒルメスの機嫌はますます悪くなる。
下ろされた位置のまま向かい合っているために互いの距離が異様に近い。アイラは思わず数歩後ずさった。
それに気づいたヒルメスは眉根を釣り上げて、細い腕をつかみ上げる。
「何を隠している。言え」
「それは……」
どう答えればいいのかもわからない。どの答えが正しいのかも分からない。
責め立てられている気がして、緊張で声が出せなかった。
掴まれた腕を引いて、また数歩後ろに下がる。左足のかかとが地面から張り出した木の根に引っかかって、体勢が崩れた。
倒れかける自分の体に、アイラは考えるよりも先に体を動かした。倒れた衝撃から守るように腹部を両手で包み込む。体を丸めて、固く目を瞑った。
けれども衝撃は訪れなかった。
代わりに訪れたのは、やわらかい布地の感触だ。
抱き止められたと気付き、まずは腹部を打たなかったことに安堵を覚える。
「何をしている。大人になってもお前は転ぶのか」
その声にアイラは妙な親近感をおぼえた。先ほどまでの研ぎ澄ました刃のような冷たさは消えている。
その代わりに、かつて少年が年下の少女に向けていたような呆れた口調と溜息が思い起こされる。
「さすがにもう転んだりしません」
思わずと言ったように、アイラは場違いにもそう言い返した。
ふんと鼻で笑う気配がする。緊張感が抜けると、その仕草が妙に懐かしく思える。
「目の前で木の根ごときに躓きかけた口がそれを言うか」
「今はその、体調が良くないので……だから、その……」
その先はどうしても言葉が続かない。
「何を隠している。その顔色の悪さといい、それに今――なぜ腹部をかばった?」
確信をつくその言葉に、彼がもう気付いてしまっているのだということをアイラは悟った。
彼の人並み外れた洞察力は昔から変わっていないのだ。
ペシャワールで会ったときからこちらの自分の一連の言動は、鈍くなければ、確かに悟られても不思議ではない。
しかし、それに続く言葉にアイラは驚いた。驚いて、咄嗟に何も言い返せなかった。
「俺には言えぬのか。言えぬ相手ということか」
「―――!」
一瞬の沈黙を肯定ととらえ、ヒルメスは自分でも血が煮えたぎるような嫌悪感を覚えた。
ぎしりと奥歯を噛み締めて、立ちすくんでいるアイラをその背中に迫った木の幹に追い詰める。
透き通るように白い頬をかすめたこぶしが幹を揺らすと、喉を引き攣らせて小柄な体が硬直する。
ヒルメスは苛立ち紛れに仮面を外すと、それを地面に投げ打った。がしゃりと金属が地面を打つ鈍い音が響く。
びくりと大げさに肩を跳ねさせる様をみても、何の感慨も抱かない。
「誰だ、言え!」
怒鳴りつけた声に弾かれるようにして、ずっと俯いていたアイラが顔を上げる。
その顔はヒルメスの予想に反して、大粒の涙に濡れていた。
「わたしの、――私の不貞をお疑いになるのですか……――この子の父親は、貴方以外にありえないというのに……」
「だがヴァフリーズの甥やあのヘボ画家はお前を連れ去った! 二度もだ!愚かにも俺からお前を奪おうとする!!」
「もしそうなら、ダリューンやナルサスが私を一人で旅立たせることはなかったはずです!」
潔白を示そうとするその言葉も、アイラが二人に対して多大な信頼を置いていることがうかがえて、ヒルメスを余計に苛立たせる。
「ならばなぜ一人で城を発ったというのだ! あの二人に庇護を求めることもできたのではないか?」
激昂を露わにするヒルメスとは対照的に、アイラはどんどん冷静さを取り戻していった。
信じてほしいと願っている彼に疑われていることが、何よりもつらい。苦しいし、悲しい。それに悔しいと思った。
一度でも許したくない侮蔑の言葉だと思う。やるせなさに涙が止めどなくあふれてくる。
言葉を詰まらせながらも、アイラは静かに答えた。
「城を発つと決めたのは私自身です。この子を守るために……アルスラーン殿下のもとにはいられないと、そう思いました。アルスラーン殿下は、この子を害するつもりはないとおっしゃられましたが、私はあの方の弊害になりたくはなかった……だから、城を出たのです」
悄然としたアイラの様子に、ヒルメスは冷水を浴びせられたかのように怒りの矛先を見失った。
「ギランの街に、私にとって父とも言える人がいます。療師としての私の師です。彼を頼るつもりです」
坦々と説明するアイラの瞳がしだいに暗くなる。自分の感情や他人の言葉のすべてを拒絶するように、翡翠色の瞳が色を無くしていく。
ヒルメスがそれに気づき、自分の過ちに気付いたときにはもうすでに手遅れだった。
「アイラ、」
「私には、この子を見殺しにすることなどできません……したくない、そんなこと絶対にしたくない……たとえ望んで身篭った子でなくても、私にとっては愛しいあなたの子なのです――!」
「!! ――っ、アイラ、もういい……もう、十分に伝わっている」
かし揺らいだ細い体を心のかぎり抱きしめて、亜麻色の髪に顔をうずめて、ヒルメスは情けなく呟く。
「この子を奪わないで……お願い、疑わないで……」
堰を切ったように泣きじゃくりながら、それだけをうわ言のように繰り返すアイラに、ヒルメスがかける言葉が見つからない。
その小さな頭を胸に抱いて、ただ抱きしめるしかできなかった。
心が張り裂けそうに痛む。その痛みはヒルメスが長く忘れ去っていたものだった。否、忘れようとしていたものだった。
心の痛みに気付かないようにしていれば、どんな非情なことにも手を染められたからだ。
復讐のためにはそうするしかない。そう思っていたからだった。
「もう何も言うな、アイラ……許せ――!」
今はじめて、その選択を心から後悔した。