「リンドウの花を君に」

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(バフマン&サームside)

 孫娘を抱いて去っていくヒルメスの後ろ姿を、バフマンは複雑な思いで見つめていた。
 ペシャワール城塞の守備を任じられていた彼は、アトロパテネでの夥しい兵数の惨殺と王都占領を、伝令を通じて聞き知った。
 のちにペシャワールへと逃れていた王太子の証言からもそれは事実であることが証明されている。
 そしてもちろん、王都エクバターナで孫娘との間にあったことも聞き知っている。
 しかしそれらはすべて、幼少期のヒルメスを知るバフマンにとって、にわかに信じがたい内容だった。
 まさかという思いが未だに強い。銀の仮面をつけた異様な容貌でペシャワール城塞に現れたときでさえ、バフマンはまだ信じがたい思いを抱いていた。
 なぜなら、彼は一度たりともアイラには刃を向けていないからである。
 それどころか、ペシャワール城塞では彼女に襲い掛かるはずだった自身の刃を素手で受け止めて防ぎ、今もまた、山賊に襲われている自分たちの前に現れ、敵を倒したのだった。
「バフマン卿! アイラ殿をこのまま行かせてもよろしいのですか!?」
 護衛に連れてきた自兵の青年が困惑した様子でバフマンを急きたてる。もう一人の護衛も、口には出さないがその表情は険しい。
 バフマンは疲労を滲ませた苦悩の面持ちで、首を左右に振った。
 視線を手繰らせると少し離れたところにかつての同胞が佇んでいる。バフマンは静かに口を開いた。
「サーム。おぬしが今、忠誠を誓うのは――」
 ヒルメス王子、と言おうとして口ごもる。今はもう、王子と呼ぶのは憚られた。
 そう呼びたい気持ちは未だ確かに胸の内にあったが、アルスラーン殿下に尽くすことを誓った身では、立場が許さなかった。
「私はヒルメス殿下に忠誠を誓いました」
 意を汲んでサームは厳かに答える。
 その瞳には一切の迷いがない。彼は厳格な武人である。彼が君主と定めたのなら、それはもう覆すことは難しいのだと、バフマンもまた悟っていた。
「彼の方はアイラをどうなされるおつもりなのか……。アイラひとりの身なればいざ知らず、今のあの子が彼の方のお傍にいることは難しい」
「それは一体……殿下を信じられぬと?」
 バフマンはそれには答えず、老いた目に悲壮感を浮かばせた。
 今頃、孫娘の身のことを彼女自身から聞かされていることだろう。果たしてそれに対し、どう答えるだろう。
 孫娘の身を案じて、二人が消えていった木立ちのほうを見る。二人の姿は影に隠れて見えないが、まだそう遠くない場所にいるはずだった。
「……バフマン殿?」
 怪訝そうに問い詰めるサームに、バフマンは自分たちが南へと下るわけを語って聞かせた。


 ――アイラが殿下の御子を懐妊しておられる、と……
 バフマンの口から語られる真相に、サームは目を見張って握り閉めたこぶしを震わせる。
 予想だにしていなかった。あまりの衝撃の大きさに、すぐには立ち直れない。
 一拍置いて、サームは唇を堅く引き結んだ。そして、若い主の心中を慮って憂う。
「殿下は――」
 ――アイラを安全な場所に居させようとなさるはずだ。
 サームにはそう思えた。
 その時、背後で物音がして、サームははっと顔を上げる。視界の端でバフマンが驚いた様子で立ち上がるのが見えた。
 バフマンの視線の先を追って自身もまた振り返れば、馬上の人となったヒルメスが、手綱を手にこちらに向かってくるところだった。
 殿下、と呼びかけようとして、その外套の影から亜麻色の髪が覗いているのに気付く。
 目を凝らしたサームは、目を閉じてヒルメスに体を預けるアイラを見て口をつぐんだ。
「アイラをギランへ送り届ける。関所の手前までだ」
「しかし孫娘は……」
 バフマンが口を濁す。ヒルメスは彼を一瞥して視線を落とした。
「分かっている。――すべてアイラから聞いた。ゆえに安全な場所に連れて行く」
 それとも、と続けたヒルメスは、昔の彼を知る万騎長たちにしか悟られないほどわずかに端整な顔をゆがめた。
「俺の言うことはもはや信じられぬか、バフマンよ」
「………」
「今更誰にどう思われようと構わぬ。……すでに道は定まったのだ。それは誰にも止められぬ」
 外套に包まれて横抱きにされていたアイラの瞼がぴくりと震える。
 その眦から一筋の涙が伝い落ちて、彼女を支えていた手の甲を濡らした。
 ヒルメスは濡れた感触に無言で目を細めると、自らのぬくもりを分け与えるように細い肩を抱き寄せる。
 泣いているアイラもまた無言だった。
 近くにいるはずの二人の間にある埋められない溝が、二人に忍び寄る別れの辛さを予感させていた。

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