「リンドウの花を君に」

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『……たとえ望んで身篭った子でなくても、私にとっては愛しいあなたの子なのです――!』
 そう言われた瞬間、体中の血液が逆流するような衝撃を覚えた。
 憤怒に燃えていた火は冷や水を浴びせられたように瞬時に消えてなくなり、代わりに沸き起こったのは、歴然とした深愛の情だ。
 仮面の下に隠しきれないほど溢れてなお、積もるばかりの。
 かし揺らいだ体をかき抱いて、亜麻色の髪に顔をうずめる。
 額を押し付けて、みっともないことを言わないよう、ぐっと奥歯を噛み締めた。
 それでも唇からは震える吐息がこぼれ落ちていく。
 「奪わないで」、「疑わないで」と、それだけをうわ言のように繰り返すアイラに、過ちを悔いる言葉を呟いて、二人は隙間を埋めるように互いの身を寄せ合った。


 いくらパルスの南方とはいえ、冬の寒さは侮れない。日暮れが近くにつれて、にわかに肌寒さを感じるようになってきた。
 寒風が吹く中にいつまでも身重の体を晒して立たせておくのは忍びないと、ヒルメスは思案して自身の纏っていた外套を開いた。
 アイラが拒まないのを確かめて外套の中に引き入れる。
 そのまま服が汚れることも気にせずに木を背にして地面に腰を下ろした。
 こんなときだが、膝の上に感じる重みが無性に愛おしく思えた。
 外套ごと小さな背中を抱き込んで、ためらいがちに腹部に手を回すと、一瞬ぎくりと体をこわばらせたアイラは、しかしすぐに体の力を抜いてヒルメスの胸にもたれかかる。
「俺に触れられるのは嫌ではないか」
 これほど頼りなさげに聞こえた彼の声を聞いたのは初めてだと、アイラは思った。
 背中側にいるヒルメスの顔を見るために首を巡らせようとすると、それを拒む形で、ヒルメスの束縛が強くなる。
 アイラは仕方なく、腹部に回された手に自分のそれを重ねて、ぎゅっと握り閉めた。
「嫌ではありません」
「……俺はお前に酷い仕打ちをした。決して許されぬことを何度もした……これからもしないとは言い切れぬ」
「確かに王都でのことを思うと初めは悲しくて、今も、貴方に疑われたことを辛いと思いました。――でも、私は貴方を嫌いになんてなれない……きっとこれからもずっと、貴方を想い続けます」
 全身に感じられる愛しい人のぬくもりに、アイラは小さく微笑む。
 腹部に触れる手のあたたかさを、アイラは一生忘れることはないと思った。
 こうしていると流れゆく時間を忘れてしまいそうになる。けれど、別れのときは避けられそうになかった。
 顔を合わせないまま、アイラは静かに口を開いた。
「ヒルメス様。私はこの子を守り、ずっと貴方を待っています。いつまでも――貴方が戻られる、その日まで……」
「……俺はもう、後戻りはできぬ」
「それでも信じていますから。貴方が今までどれだけ苦しみ、孤独に耐えてきたのか、私にはその半分も理解できていないことでしょう。……だから、もう一度貴方に会えたら言おうと思っていました。あの時、貴方の気持ちも慮らずに、ただその行いを否定したこと、そして貴方の味方でいられなかったこと……ずっと、ずっと後悔していました」
 泣きそうになるたび、言葉が震えそうになるたび、アイラは深く息を吐き、時間をかけてすべてを話す。
 そうして、愛しい人にもう一度会えたら言おうと思っていたすべてのことを、ゆっくりと話した。
「何が正しく、何が間違っているのか、今はまだ分かりません。貴方がこれまで殺めてきた命と、これから殺めるだろう命とは、とても重く、一度失くしてしまえば、どんなに願っても取返しのつかないものです。……貴方は一生をかけて、その重さを背負われるおつもりなのでしょう。――そうであるなら、私はもう逃げません。貴方と共に、その命の重みを背負う覚悟をします」
 痛いほどに強く抱きしめられる。けれど、芽吹く命をいたわるように、守るように抱かれる優しさが、とても切ない。
 束縛が解けて、自然と二人は向かい合わせになる。交わる視線に、翡翠色の瞳を甘やかに溶かしたアイラは、小さく微笑んで、愛しい人の顔に自らのそれ近づけた。
 触れ合いそうで触れ合わない距離でとどまる。とどめたのはヒルメスの方だった。
 アイラはヒルメスを促すように、彼の唇を指先でなぞった。
 苦しさと、切なさと、愛しさと。複雑に混ざり合った感情を孕んで、重い口が開かれる。
「――今までこの手で葬ってきた命のために、俺はもう立ち止まることも、振り返ることもできない。身勝手であることは重々承知している。だが、お前を……お前たちを守りたいのだ」
「ヒルメス様。私がただひとつ望むのは、貴方が生きていてくれることです。貴方を二度も失っては、私はもう生きていけません……」
「アイラ……俺はお前を散々傷つけて、今も、お前の親しい者を殺めようとしている。それでも――それでもお前は俺を見捨てようとはしないのか」
「――それが私の覚悟です。貴方への想いの証です」
 どうか疑わないで、と囁くように続けると、堪らないと言わんばかりにヒルメスは息を詰める。
 衝動に駆られたヒルメスが互いの額をすり寄せる。それでもそれ以上は触れてこようとしないヒルメスに、アイラは苦笑した。
 王都での、たった一度の過ちをよほど気に病んでいるらしいことを悟る。
 アイラのほうはもう彼を許す気持ちになっていた。痛みの中にも想いがあり、冷たさの中にも愛しさが感じられたからだ。
 傷つかなかったといえば嘘になるけれど、だからといって、今触れてくれないのは寂しすぎる。
「貴方はいつもそう。普段傲慢に見えて、平気で我が物顔をするのに、最後の最後で身を引いてしまうのです」
 だからとても優しい人なのだと、アイラは心の中で付け加える。
 その本質に気付いているのは、きっと数えるほどしかいない。その一人であることをアイラは誇らしく思っていた。
 そして、もっと彼を知りたいとも思う。彼のすべてを理解するには、まず彼を知る必要があるのだから。
「口に出さないと分かってくれないのですか……私がいま、なにを望んでいるのかを……」
 花がほころぶように微笑んだアイラがそっと目を閉じる。
 触れ合いそうで、触れ合わなかった二人の距離がゆっくりと縮まっていく。
 ヒルメスはアイラの唇を優しく奪った。
 初めての口づけのような、甘酸っぱくとろけるような甘さを感じて、言葉にならないほどの愛しさを胸に抱いた。

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