「リンドウの花を君に」番外編

□8.5
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「これはひどいな・・・ルシタニアの蛮族め」
 元々はそれなりに豊かな村だったろう場所も、ルシタニアの行軍が一度通ると、畑や貯蔵庫が片っ端から荒らされ廃墟に成り果ててしまう。
 それが、王と王都を失った今のパルスの領地の現状だった。
 カシャーン城砦へと向かうアルスラーン一行は、物資調達と宿を目的に立ち寄った村の入口で言葉を失っていた。ナルサスなどはこの状況をある程度は予想していたものの、実際に目にするとその悲惨さに眉根を顰めざる得なかった。
 建物の影から怖々とこちらを伺う村人たちは、アルスラーンたちが武装していることに気づくと、旅人たちがパルス人であろうとルシタニア人であろうと怯えたように縮こまった。
 平穏な暮らしを奪われた今の彼らにとって、よそ者は皆厄災のもとだとしか思えなかった。
「あ、あんた達! 何しに来たんだ!」
「まだ俺たちから糧を奪っていくつもりか!」
「よそ者はもうたくさんだ!! 早く失せろ!」
 隠れる村人たちの中から鍬や斧を手にした農夫たちがそろそろと近づいて来てアルスラーン一行に怒鳴る。
 殺気というよりも痛切な必死さがこもった声だ。武器と呼ぶには粗末な農具を持つ手が震えている。
 立ちふさがる農夫たちから、なんとかして自分たちの村や妻や子供たちを守ろうという気持ちがひしひしと伝わってきて、アルスラーンは息を飲んだ。常であれば殿下に刃を向ける敵を一網打尽にするダリューンも、パルスの民相手にそれはできない。
 一行が何を言っても聞く耳すら持たない農夫たちに、ナルサスでさえも諦めかけたその時、それまでファランギースの隣で黙然と農村の様子を伺っていたアイラが口を開いた。馬の手綱と護身用の短剣をファランギースに預けて、単身、一行の前へと進み出る。
「な、何をするつもりだ女!」
「怪我をしているようですね」
「は?」
 鍬を両手に握り締めた、ダリューンより少し年長の農夫が片足をかばっているのを目ざとく見つけたアイラは、その農夫の足元に静かにその場にしゃがみこんだ。その手には薬草をすり潰した軟膏の瓶が乗せられている。
 アイラが瓶の蓋を開けようとすると、農夫は目を見開いて一歩たじろいだ。
「だ、騙されないぞ、毒でも仕込んで・・・」
「毒など仕込んではおりません。それに私たちがあなた方を害するつもりなら、私の後ろにいる騎士たちが遠の昔にその武器を振り下ろしていることでしょう」
 湧き上がる怒りを鎮めるために小さく息をついたアイラはすくっと立ち上がる。彼女が怒っているのは、村人たちに対してではなかった。武器を持たない民草に無体を働き彼らを侮辱したルシタニアの兵に対して、アイラは腹を立てていた。
「私はあなた方を傷つける武器を一切持っておりません。私の言葉が信じられないのなら、あなた方の気の済むまで確かめてください。私は療師です。怪我をしている方を見たら放っては置けないたちなのです。今、私を殺すことはあなた方には容易いでしょうが、どうせ殺すなら怪我の手当をさせてからの方が有効だとは思いませんか」
 薬瓶を顔の横にかかげて微笑む亜麻色の髪の柔和な面立ち女に、農夫たちは毒気を抜かれたようだった。
 仲間同士で目を合わせ合ったあと、恐る恐るといった様子で頷く。
「いいだろう。だが、村へ入れるのはお前ひとりだけだ」
「わかりました」
 武器を向けられたままでも顔色を変えることもなく、アイラは自分の荷の中から手早く薬箱を取り出して両手に抱える。そして心配そうに見守るアルスラーンに笑顔を向けた。
「殿下、こちらでしばしお待ちください。まずは村人たちの警戒を解かねばなりません」
「一人で行っても平気なのか」
「ご心配には及びません。こうした状況は慣れておりますので。殿下に後ろめたき事情がないのですから、村人たちはきっと心を開いてくれます」
「・・・アイラがそう言うと安心するな」
 しっかりと頷いたアルスラーンに軽く頭を垂れて、彼の左右を守るダリューンとナルサスに目配せしたアイラは、農夫たちの案内でひとり村の中へと入っていった。

「慣れているのはどういうことだろうか?」
 アイラの後ろ姿が見えなくなるまで見守っていたアルスラーンが小首をかしげて呟く。その後ろでダリューンとナルサスは顔を見合わせた。
「殿下、アイラが王都に戻るまでどこで何をしていたかご存知ですか?」
「療師の勉強のために港町ギランにいたと聞いているが・・・そう言えばそれ以上は聞いたことがないな」
 アイラは元々王都の生まれだ。彼女は小さい時に両親を失い、それ以来祖父のバフマンに育てられてきた。アイラが十に満たないときに起きた悲しい事故が、彼女が療師を目指すきっかけとなり、それを機に彼女は単身ギランへと旅立ったのだった。
「アイラの療師の師匠は、それはもう賢人でありまして」
「賢人?」
 はい、とナルサスは冷静沈着な彼にしては珍しく少し興奮したように語り始めた。
「かの師匠は、ギランを拠点に世界各地を巡り、医術を必要としている者のために尽力している人なのです。その行く先々で珍しい医学書を研究し、その風土の植物を採取し、新しい薬を次々に開発していると聞きます。また、その才は医学に留まることなく、兵学、理学、哲学、政にいたるまで幅広いのです」
「そんなにすごい人なのか」
 目を見張って関心するアルスラーンに、今度はダリューンが言葉を繋いだ。
「アイラはかの師匠の元で十年間様々なことを学び、彼に付いて各地を巡っていたそうです。先ほど慣れていると言ったのは、その先々での経験によるものでしょう。彼女は常々口にします。“傷ついた者を救うことこそが、私の本懐”なのだと」
「だからさっきも・・・」
 武器を向けられて、敵意を露わにされて、無防備に立ち向かうことができる人はそう多くないだろう。増して救いの手を差し伸べられる人は少ないはずだ。
 けれどもアイラの瞳に恐怖している様子は見られなかった。ただ静かに、弱っている者たちにひたむきに向き合い、自分が療師であることを真摯に示したのだ。
 はた、とアルスラーンは思い出した。
「そう言えば、以前アイラが言っていた。自分は療師であることに使命と誇りを持っているのだと。だから、一心に命をかけるのだと」
 傷ついた者に向けられるアイラの瞳には一切の迷いがない。それは療師としては鏡かもしれないけれど、アルスラーンには少し怖いことのように思えた。あの瞳を見ているとなぜか不安な気持ちになるのだ。
 もしも、目の前に傷ついている人がいたとしたら。アイラはその人を救うために迷わず全力をかけるだろう。それは、ひどく危ういことのように思えた。
 アイラが自分の身を軽んじているわけでないことは、アルスラーンにもよく分かっている。けれども、自分の命以上に、アイラは他人という存在を大切にする。命を落とすという意味が、彼女には自分たち以上に重い意味を持っているのだ。
 ―――まるで、失うことを恐れているように。
 ぞわりとした冷たい何かが、アルスラーンの背筋を凍らせた。
「どうなさいましたか、殿下?」
 ダリューンが急に口ごもったアルスラーンを訝しむようにその顔を覗き込んでいる。
「顔色が良くないように思われますが・・・旅のお疲れが?」
「いや、ダリューン。大丈夫だよ、大丈夫」
 恐ろしい考えを断ち切ったアルスラーンは、自分を心配してくれる仲間たちに微笑んだ。
遠くからアイラが手を振っている。下ろされた方のその手に、村の子だろう小さな女の子の手が握られている。
 彼女の周りは手当が済んだ村人たちが取り囲んでいて、女の子の顔も他の村人たちの顔をみんな穏やかだ。
しゃがみこんだアイラが少女の耳に何事かを囁いたかと思えば、その少女は満面の笑みを浮かべて頷きアルスラーンの元へと走り寄ってきた。
「旅のみなさん! さっきはごめんなさい! アイラお姉ちゃんはまだ手が離せないみたいなんだけど・・・今ね、お母さんがお茶をいれているの。みんなでうちへ来て!」
 そう言ってアルスラーンの手を引く少女は、ひだまりのような笑顔で笑った。

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