「リンドウの花を君に」番外編

□9.5
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(ダリューン&ナルサスside)

 夕食までの時間を宛てがわれた客室で休むと言うアイラの背中を、ナルサスは険しい表情で見送った。
 ナルサスの知る限り、武術こそ心得ていないものの療師として働くアイラは同年代の女性より体力がある。療師の修行中は国境を越えて遠方の国を旅していたし、王都エクバターナに戻ってからも薬草や道具の買い付けに何度か王都とギランを往復している。
 それを考慮するとアイラの体調の悪さが気にかかった。
 今のアイラの顔色の悪さは単なる疲労だろうか。あるいは。
 ナルサスの脳裏を背筋が凍るような冷めた予感が過ぎった。
「おい、ナルサス」
 友の呼びかけに横目で応じれば、自分と同じようにアイラの背中を追っていたダリューンが苦渋の表情を浮かべている。
 この無骨な馬鹿は、幼馴染を至極大切にしている。それを言えばナルサス自身も例外ではないのだが、ナルサスには友がアイラに向ける目に、自分にはない感情が含まれていることに気づいていた。
 今までそれを言葉にして指摘したことはないし、ダリューン自身も自覚していないような微妙なものだったから取り立てて問い詰めたことはない。それでも洞察力の優れたナルサスには友の気持ちを知るに易かった。
 もっとも、アイラの方は完全に友としての感情しか持っていないだろう。
 彼女が自分たちに抱いているのは、完全な信頼と安心感だ。聞こえはいいが、要は異性として認識していないということである。
 ダリューンの想いに気づかない彼女が決して鈍いわけではないと、ナルサスは思っている。むしろ、アイラが“そうなること”を恐れているようにも見えた。
「お前の言わんとしていることは分かっている。だが、本人が口を噤んでいる以上、迂闊に聞くのは得策ではない」
 ひとつ小さくため息をついたナルサスは、アイラの姿が完全に視界から離れるのを見届けて口を開いた。
「まだあの日からそう月も経っていない。何事も判断するには早かろう」
 悩んでも仕方ない、と少し突き放すように言えば、ダリューンは苦虫を噛み潰したような顔をして低くうなった。そんなことは自分に指摘されなくても分かっているだろうダリューンが尋ねずにいられなかったのは、あまりにもアイラの顔色が悪かったためだろう。
「心配か?」
 ナルサスが口端を上げて口にすれば、ダリューンは当然だと言わんばかりに友を睨み返す。これだけはっきり顔に書いているのに、本人にその自覚がないとはなんとも救いようのない友である。
「ダリューンよ」
「何だ」
「・・・・・・いや、なんでもない」
 友にその想いを自覚させるのは簡単だ。一言口に出してしまえばいい。
 けれどもナルサスはそうしなかった。アイラの目が誰に向けられているのか、ナルサスは薄々感づいている。なぜ彼なのかまでは分からない。
 だが普通、女が見知らぬ男に無体をされて平静でいられるわけがないのだ。にもかかわらず、ファランギースの手当を受けてようやく目覚めたアイラは取り乱しも泣き喚いたりもしなかった。
 アイラと二年ぶりに顔を合わせ言葉を交わしたナルサスが抱いた疑念は、今はまだ根拠のないものである。けれども根拠がないだけで、それは事実でもあるのだとナルサスは確信していた。
「歯がゆいな」
 自分にしては珍しくも主観的な感情から咄嗟に出た言葉だと、ナルサスは自身に苦笑する。
 顔に出さないだけで、一人で苦しんでいるアイラのために何もできないこの状況が、ナルサスにも相当堪えているらしかった。
「ダリューン、もしこの先アイラがどんな道を選択しても、お前は彼女の味方でいられるか」
「・・・どういう意味だ」
「そのままの意味だ。アイラの味方で居続けることはできるかと聞いた」
「当然だ。アイラは友なのだから」
「友、か。ではダリューン。もしこの先、アルスラーン殿下とアイラ、どちらしか選べないとしたらお前はどちらを選ぶ」
 そんなこと微塵も考えなかったと言わんばかりに、虚を突かれたふうのダリューンが目を見開いて絶句する。
 この愚直なまでに一本気な友に対するにはあまりにも意地悪で悪趣味な問いだが、常に起こりうる可能性の全てを計算するナルサスにとっては明確にして置かなければならない問題だった。
「それは、」
「選べぬか。お前も俺もアルスラーン殿下に忠誠を誓っている。だが、その上でアイラを切り捨てることもできないと?」
「ナルサス!」
 あまりにも冷徹なナルサスの言いように、堪りかねたダリューンが憤慨して声を荒げる。それでも、ナルサスが真剣な面持ちで自分に視線を向けてくるのを見てしまっては、それ以上言葉を続けることはできなかった。
 互いに向き合ったまま黙り込んで、ダリューンは冷静沈着で明晰な友の言葉を脳内で反芻する。
 殿下とアイラ、どちらを選ぶか。そんなこと考えもしなかった。アイラも自分も殿下に従い、ゆく先が同じなのだから、どちらかを選ぶ必要などないと思っていたからだ。
 そこまで考えてから、ダリューンは友の言わんとしていることをようやく察した。
「ナルサス、まさか」
「そのまさかだ。アイラがアルスラーン殿下に忠誠を誓っている、その根拠はあるか」
「アイラは殿下について来た」
「確かにアイラはアルスラーン殿下の支えになりたいと言った。だが、殿下に忠誠を尽くすとは言っていない」
「アイラを疑うのか」
「いいや。アイラの性格からしてそれはない。だからそんな恐い顔で睨むな、ダリューン。俺はアイラを疑っているわけでない」
 疑っているわけではない。むしろその逆だ。
 アルスラーン殿下のことを思えばこそ、アイラは苦しんでいるのではないか。そんな疑念がナルサスの脳裏にはあった。
 黙り込んでいるダリューンを訝しんで顔を上げたナルサスは、目前の友の顔を見て目を見開く。それから心内の疑念を安易に口にしたことを後悔した。
「いや、やはり今の言葉は忘れてくれ」
「ナルサス」
「悪かった。少し先走りすぎたようだ」
 ナルサスが悄然と頭を振る。ダリューンは何と返すべきか言葉に悩み、結局相応しい言葉を思いつけずに、ひとつ重苦しく頷いた。
「今はまだ、目の前の問題に目を向けるとしよう」
「同感だ」
 互いに気持ちを切り替えるのに十分な拍数を置いて、ダリューンとナルサスは歩き出した。

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