「リンドウの花を君に」番外編

□13.5
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(ヒルメスside)

『ヒルメス様、どうか、もう・・・っ』
 必死にそう訴えて、涙しながらすがり付いてくるアイラの細い指を、無理やり引き剥がした。
 小刻みに震えている小さな体を突き放すように身を引くと、アイラは息を詰まらせて只でさえ青ざめた面持ちからさらに血の気を引かせていく。
 その痛々しさに胸をえぐられるような感覚がしながらも、絶望が浮かぶ翡翠色の瞳を避けて立ち上がった。
 アイラの瞳を見るのが恐ろしかった。だから、自分は逃げ出したのだ。
 敵に臆したわけではなく、小倅に敗北したわけでもない。
 何よりも、愛しい人の顔を見るのが恐ろしくて逃げ出したのだ。


 ペシャワール城砦を脱した後もしばらく、近隣に潜伏していたヒルメスは、岩壁からペシャワール城砦の所々に灯る松明の灯りを眺めていた。
 目蓋の裏に鮮明に焼き付いたアイラの面影がいっこうに忘れられない。
 横槍が入ったとはいえ自分から逃亡しておいて、何を今更後悔しているのかと自嘲しても、胸の奥のわだかまりは安易にはとけそうもなかった。
 アイラがアンドラゴラスの小倅を背中にかばい、自分の前に立ちはだかった。
 その事実がただでさえ沈む気持ちに重くのしかかる。
「なぜだ……アイラ、なぜ――」
 裏切りと嫌悪には慣れていたはずの冷めた心に、深く突き刺さる棘がある。
 傷口からじわりじわりとえぐられていく感覚が背筋を凍らせた。
「あの娘のことが気がかりですかな、銀仮面卿」
「!――盗み聞きか、趣味の悪いことよ」
 何もない地面からぬるりと這い出てきた黒装束の魔道士が、血のように赤い瞳をギラつかせて冷笑を浮かべている。
 凍てついた空気の微動に騒めく愛馬の首を、諌めるように数度叩いたヒルメスは、その姿を視界にも入れない。
「あの娘はアルスラーンどもから離れる由にございますよ」
「何?」
「南へ旅立つとか」
「なぜ分かる」
「地行術を用いれば、情報を得るなど容易きこと・・・どうなされますかな」
「何をだ」
 魔道士は濁った目を下賤の色に染め、その口元は舐めるように浅ましい笑みを湛えた。
 ヒルメスは沸きあがろうとする嫌悪感を表情に出さないよう、努めて冷静を保とうする。
「あの娘を捉えればアルスラーンへの武器として使えましょう。それにあの、黒衣の騎士も娘には心を許しているようですぞ。さすれば、付け入る隙も生じさせることが可能かと」
「くだらん。小倅を始末するだけのためにそんな小細工などいらぬわ」
「それだけが理由で?」
「……何が言いたい」
 ヒルメスが向ける殺気を帯びた鋭利な視線にも魔導士は薄ら笑いを浮かべたまま、動じた様子はなかった。
「銀仮面卿、復讐を遂げたいとお望みならば女への未練など捨ててしまわれよ」
「貴様には関係のないこと。貴様ごときが俺に意見するなど甚だおこがましい。用がないのなら疾く去れ」
 魔導士は最後まで笑みを崩さず、煙を立つように虚空へと消え失せる。
 ヒルメスは薄気味悪い肌寒さが残るのを半ば無理やり断ち切ると、静かに馬頭を返した。
 一定の速度で馬を駆けさせながら、ヒルメスは先ほどの会話を反芻する。
 魔導士の話が事実であれば、アイラはアルスラーンどもと別れて南へ向かうという。
 南の方角にあるのは、パルス最大の港町ギラン。
 ギランは大陸公路を除いてパルスの最後の補給地点である。
 王都エクバターナを奪還しに来るとすれば、王都と運河で繋がるギランの掌握は絶対条件とも言える。
 無論ルシタニアもそこに目をつけ、幾度もギラン侵略を模索したが、いずれの策も難航していた。
 ギランは商人と海賊の権限が強いためである。そして、ギランで築かれた巨万の富はルシタニア本国へも流通している。
 これが一切途切れると、ルシタニアの遠征軍は本国の商人たちから罵倒され、後方支援を失ってしまう、という悪循環がルシタニア軍の足を留めていた。
 アイラがギランに滞在するならば、一先ずその身の安全は取れそうである。となれば問題はそこに至るまでの道中である。
 バフリーズの甥どもがアイラをひとり行かせることはないにしろ、こちらからも誰かを付けさせるべきか。
「ザンデ…いや、サームを行かせるか……」
 万に一つということもある。
 面識のないザンデよりも、アイラと親しいサームの方が適任だと算段をつける。
『銀仮面卿、復讐を遂げたいとお望みならば――…』
 女への未練など捨てろなどとほざいた魔導士の言葉を思い出して虫唾が走った。
「アイラへの想いは未練などではない。あれは元より俺のものだ。そしていずれ必ずや奪い返すのだから」
 別れ際の泣き顔が瞼の裏に焼き付いている。
 行かないでと訴えかける瞳。唯一自分を立ち止まらせることができたかも知れない女。
 だが、それももう遅い。
 ヒルメスは断ち切ったのだ。挿し伸ばされた手を拒絶し、背を向けた。
 全てはアンドラゴラスとその小倅を殺し、真のパルスの国王として即位するために。
 それらが叶った暁には、再びアイラの前に立つ。
「パルスの玉座も、愛しい女も、望むものは全て手に入れてみせる。十六年の間味わった屈辱を晴らし、取り戻すのだ――パルスに在りし日を!」

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