「リンドウの花を君に」番外編
□21.5
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(ヒルメスside)
その日、ヒルメスは王都エクバターナの王宮にいた。詳しく言えば、戦禍など微塵も感じさせない静かな中庭の一角に、である。
何をするでもなく、ヒルメスはただそこに佇んでいた。
そう広くもなく人目につきにくいこの中庭を、ヒルメスは直属の部下に堅く守らせ、ルシタニア人の侵入を固く禁じていた。
そのことを部下が首を傾げて不思議に思っているのを知っていても、ヒルメスにとってはどうでもいいことだった。
己が命令さえ聞いていればそれでいい。その理由を彼らが知る必要はないのだ。
ヒルメスは先刻、商人の出で立ちをした老父と若い女の一行がペシャワール城塞を密かに出立したとの報告を受けた。
そしてそのことをサームに話したところだった。
カーラーンを喪ったヒルメスにとって彼は、ザンデと共に最も信頼をおく部下のひとりだ。加えて彼は、経験と言う点でザンデより遥かに勝る。
万騎長という肩書だけでも、隙あればヒルメスを追い落とそうとするルシタニアへの権勢になるのだ。
「ペシャワールから出立したのはアイラだ。お前はその護衛に向かえ」
自分の前に膝をつくサームにヒルメスが言う。サームは険しさの滲む顔を上げて、今の若い主を見た。
「御意……失礼ですが、殿下にひとつお聞きしたいことがございます」
「何だ」
「殿下は、アイラのことをどうされたいのございましょう」
「……どう、とは」
サームは主を怒らせてしまうことを覚悟で聞いたのだが、予想に反してヒルメスは抑揚のない声音で返すだけだ。
もしかしたら、ヒルメス自身も考えあぐねているのかもしれない。
戦前に別れたきりのアイラの笑顔がサームの脳裏によぎる。彼女はなぜ、今この時にアルスラーン殿下から離れて南へと向かったのだろうか。
「おそれながら……私にアイラの護衛をお命じになられるのは、ヒルメス殿下が今でも彼女のことを、その御心に留め置かれているからに他ならないのではございませんか。もしそうで、」
「――サームよ。それを知って何とする。アイラを護衛しろと命じるだけでは納得できぬか。理由が必要だと?」
「いいえ、殿下。今この身は貴方様に忠節を誓った身。さすれば理由など要りません。私は貴方様に従いましょう。ただ――」
サームにはどうしても知っておいてほしいと望むことがあった。
ヒルメスが国を追われてからのアイラのことだ。血の滲むような努力を積んで、今の彼女があるということだ。
「あの子は今でも貴方様のことを、ずっと――」
「分かっている」
「いいえお分かりになっておられません。本当にそう思われるのでしたら、貴方様が行かれるべきと存じます」
「………」
「本当はそうなさりたいのではございませんか?」
ヒルメスの鋭い眼光がサームを射抜くが、口を閉じることはしなかった。
カーラーンもそう進言するだろうと、サームは心の中で確信していた。
古参の万騎長たちは、アイラのことも、増してヒルメス王子のことも、幼少期からその成長を見守り、身近にいたのだから。
今この場に彼らはいない。すでに戦死した者もいれば、アルスラーン殿下に随従している者もいる。
だから、これを言うのはサームの役割なのだ。
「ヒルメス殿下」
たとえ一縷の望みだろうとも、彼の凍った心を溶かすことができるなら。
深々と頭を下げながら、サームは自分の役不足を痛感していた。
「どうか、今一度お考え下さいませんか。アイラのために」
そして貴方様のためにも。と、サームは口に出さずに付け加えた。
短くはない沈黙が、ただでさえ閑散としている中庭に重い空気を満たしていく。
サームを下がらせてからも、ヒルメスはしばらくその場にひとり佇んでいた。
凍る心に灯された微かな火種は、しかし確かに燻り続けていた。
真っ黒な灰の中の、かすかな炎。けれども、決して消えることのない深く強い想いの炎だ。
今はか細いその火が、いつか再び燃え上がる日は果たして来るのだろうか。
「アイラ……」
ひとつ、はらりと木の葉が舞う。
はっとして空を仰ぐと、そこには懐かしい大樹が枝を広げてヒルメスを見下ろしていた。
その様はまるで、小さな人の子を包み込もうとするかのようだった。
目を閉じると、いつも心に思い出す。
――君が笑う、この国を守るために王となる。
幼き日の覚悟を、ヒルメスは今まで片時も忘れたことはなかった。