「リンドウの花を君に」IF編

□小さな命に幸あれと
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《もしもヒルメスが銀仮面卿にならなかったら》
・「人はそれを幸せと呼ぶ」と同設定。続編。
・平和なギランで結婚生活を送るヒルメスと夢主が新しい命を授かる話。


* * *


 紺碧に輝く海とその恩恵によって栄える港町ギランを一望できる高台に、ヒルメスとアイラの家は佇んでいる。
 町の喧騒とは無縁の静けさがヒルメスのお気に入りで、アイラもヒルメスが人目を気にせずのびのびと暮らせることに喜びを感じていた。
 何ものにも縛られることのない自由な暮らし。本来ヒルメスが与えられていたはずの何不自由ない王宮生活には程遠いが、それでもヒルメスにはアイラが、アイラにはヒルメスがそばにいればこれ以上の幸福はないのだ。

 心地よい海風が涼やかな昼下がり。
 海を一望するバルコニーに置かれた長椅子にヒルメスとアイラが身を寄せ合うようにして座っている。
「・・・ヒルメス、重くない?」
 眼帯を外して素顔を晒したヒルメスは、最愛の妻を背中から抱きしめるように膝に乗せた状態で長椅子にゆったりと腰掛けている。
 全体重をヒルメスに預けるアイラは、夫の前に無防備でいる羞恥心におずおずと尋ねた。
 心もとなげに身じろぎするアイラとは裏腹にヒルメスは満悦そのものだ。機嫌よさげに首を左右に振って、逃がさないと言わんばかりにアイラのお腹に手を回した。
 実際、アイラの重さはヒルメスにすればさほど苦にならない。むしろ、愛しい人の全てを感じていられることは幸せ以外の何ものでもなかった。
 諦めたように小さく息をついたアイラが、ゆっくりと体を反転させてヒルメスの肩口に頬を摺り寄せる。
 本音を言ってしまえば夫の腕の中はとても落ち着くのだ。強引なのに優しい仕草で抱きしめられると安心する。
 薄く微笑んだアイラは夫に体を預けたまま、その心地よさに目を閉じた。
「眠たいのか」
「ん・・・少しだけ、でも大丈夫」
「体に障るから無理をするな。寝たければ寝ればいい」
 ヒルメスの手がアイラの下腹部をそっと撫でる。そこに命が宿っていることをヒルメスは数日前に妻から知らされたばかりだった。
 まだ目に見える変化はないがヒルメスは確かに喜びを感じていた。
「でももったいないわ・・・せっかく、あなたと一緒にいられるのに」
「起きるまでこのままでいてやる。そばにいるから安心しろ」
 柔らかな亜麻色の髪を梳きながら白い頬に唇を落とせば、アイラは嬉しそうに頬を緩める。ヒルメスはいつも優しいが、ここ数日は特に甘やかされているとアイラは思った。
 正直に言うと懐妊したことを打ち明けるには、とても勇気が必要だったのだ。ヒルメスの子を身ごもるということは、パルス王家の血を受け継ぐ子が生まれるという意味だ。重圧を感じないはずがない。
 ましてヒルメスは王家の血に対し、誇りと共に少なからず憎しみを持っている。父王を弑逆し王位を簒奪したアンドラゴラス王との間の因縁は、未だ完全に無くなったわけではなかった。
 けれども懐妊を告げたとき、ヒルメスは驚いた素振りすら見せずに静かに妻の体を抱きしめた。背中に回されたその腕と吐息が小さく震えているのに、アイラは気づいていた。
 ヒルメスの心を知るにはそれだけで充分だった。
 そのことを思い出すだけで目頭が熱くなる。しまいには涙がこぼれそうになって、顔を見られないようにとアイラは慌ててヒルメスの首筋に顔をうずめた。
「どうした・・・どこか辛いか?」
 アイラの顔を覗き込む素振りをしたヒルメスがあまりに心配そうに尋ねるので、アイラは思わず小さく笑い声を立ててしまう。
「大丈夫・・・ただ幸せだと思って」
「本当か? 不安ならそう言え」
 パルス王家の血を引く子が人知れず王宮の外で生まれることは多重の意味を持つ。
 ヒルメス自身もそのことは重々承知している。だからこそ、妻の心と体に負担を強いていないか心配に思っていた。
「ほんとうに幸せよ。あなたはそうは思わない?」
「まさか。お前が幸せだと言うなら、俺がそうでないはずがない」
「ふふ、よかった」
 顔を上げてほっとしたように微笑むアイラをヒルメスはこの上なく愛しく感じる。子を宿してからの妻はより柔らかい雰囲気をまとっている気がするとヒルメスは思った。
「私は幸せよ、ヒルメス」
 本当に心からそう思う。愛しい夫にこんなにも想われて幸せでないはずがない。小さくても確かに感じる新しい命を愛おしく思わないはずがない。
 アイラの細い指がヒルメスの顔にかかる髪を梳くと、ヒルメスの手がアイラの顔をそっと引き寄せる。目と目を合わせたまま、二人は優しく触れるだけの口づけを交わし合った。
 腕の中のこのぬくもりが愛おしい。
 無条件に自分を想ってくれる妻とその身に宿る我が子を生涯守り抜こうと、ヒルメスは固く誓った。


小さな命に幸あれと



【あとがき】
 やっと幸せな話が書けました!満足です。
 二人の子どもが登場する話が読みたいとのご意見を頂きましたので、子どもを登場させる前にどうしても書いておきたかった話です。
 王家の血を引き継ぐという意味。夢主の懐妊を知った時のヒルメスの心情。
 どちらも複雑な思いがあったのかなって思います。けどヒルメスはいい父親になるはず!
 現段階の本編ではヒルメスは夢主が自分の子を身ごもっていることを知らないので書けなくて、IF編で書けて良かったです。


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