「リンドウの花を君に」IF編

□幸福の中のある出来事
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《もしもヒルメスが銀仮面卿にならなかったら》
・怪我をして帰ってきた夢主をヒルメスが手当する話


* * *


「アイラ、怪我をしたのか」
 仕事場である港町ギランの療院から帰宅したアイラを居間の長椅子で迎えたヒルメスは、左足を不自然にかばいながら歩く妻の様子に眉をひそめた。
 読み物をしていたため、膝の上に分厚い書物を置いた状態のヒルメスは、それを片手で脇へと退けると立ち上がって妻のそばへと歩み寄る。
 気遣わしげな夫の視線を受けたアイラは、大丈夫だと言うように微笑み返した。
「重い物を運んでいたら段差に気づかなくて、少し挫いてしまったの。でも大丈夫よ」
 非常時に備えて準備している薬庫の点検をしている時に少ししくじってしまっただけだから、と言って恥ずかしそうに肩を落とす妻の話を静かに聞いていたヒルメスが、おもむろにその場に膝を付いてかがみ込む。
「見せてみろ」
「え? あの、ヒルメス。大した怪我ではないから――」
 慌てて首を振る妻にどこか不機嫌そうに眉間の皺を深くして、ヒルメスは一瞬思案するように室内を見渡して、調度その視線の先に先ほどまで自分が読書をしていた長椅子を見つけると、再びその場に立ち上がる。
 そして、不可解なヒルメスの行動に目を白黒させていたアイラの背中と膝裏にそれぞれの腕をあてがうと、抵抗する間も与えずにその体をすくい上げた。
 当然床から足を浮かすことになったアイラは、夫の腕の中で横抱きされた状態になる。宙に浮いた状態の不安定な体に驚き、慌ててヒルメスの肩口に腕を回すと、重さなど微塵も感じていない様子のヒルメスは長椅子へと歩き始めた。
「ど、どうしたの、いきなり」
 困惑したふうのその問いには答えずに、細い体をそっと長椅子へと横たわらせたヒルメスは、自分はその足元へと移動すると患部に負担をかけないようにゆっくりと靴を脱がせた。
 足首まで覆う長衣の裾をたくし上げながら、幹部を撫でるようにして具合を確かめていく。
 何度も何度も足を撫でられるアイラはたまったものではなく、しかもそれを夫にさせていることに羞恥を覚えて、意味もなく口を開閉させる。
 その頬は林檎のように真っ赤に染まってしまっていた。
「腫れているな。手当はしてこなかったのか」
「・・・大したことないと思って、そのまま」
「大したことない、か。これでか?」
「その時は、そんなに痛みを感じなかったから・・・」
「療師の言葉とは思えんな。その時に手当していれば少しはましだったろうに。どうせ、忙しさにかまけて怠ったのだろう」
「・・・返す言葉もございません」
 間違いなく怒っている、とアイラは内心冷や汗をかく。アイラが仕事に精を出すことをヒルメスは理解してくれている。しかしその反面、療師として危険な場所に趣いたり、怪我をして帰って来たりしたときは途轍もなく不機嫌になるのだ。
「・・・あの、ヒルメス」
「薬箱は」
 低い声音にびくりと肩を震わせたアイラは、反射的に、いつも持ち歩いている持ち手に象嵌が施された木箱を差し出しながら慌てて足を引こうとする。
「手当なら自分でするから」
「黙っていろ」
 とりつく暇もない。それ以上の反論は許さないとばかりにヒルメスは妻を一睨みで黙らせた。
 幹部に障らないよう優しく、けれども有無を言わさない動きで白い足を引き戻したヒルメスは、手馴れた様子で薬箱から薄い緑色の軟膏と、手頃な当て布、細長く裂いて丸めた状態の布切れを取り出していく。
 ひんやりとした冷たさを足首に感じて、思わず目を閉じたアイラは、器用に黙々と作業をしていく夫の優しい手つきを肌で感じて鼓動を早くする。
 夫に介抱されて、しかも寝台の上でもないのに足を触らせるなんて妻として失格だと思いながら、跪いているために見下ろす体勢になったヒルメスを、いたたまれないとばかりに盗み見た。
 手早く作業を終えようとしているヒルメスは、患部に巻いた布の巻き終わりを結びながら、具合を確かめるようにしている。
 少しだけ持ち上げられた自分の足越しに、目線が交じり合う。その目がいつもよりも冷えているように見えて、アイラは唇をきゅっと引き結んだ。
「・・・ごめんなさい」
 俯いたアイラの耳にため息が入り込む。ヒルメスが足を下ろした気配がしても、アイラは顔を上げることができなかった。
 自分の判断の失敗で、ヒルメスに心配をかけてしまったことへの申し訳さでいっぱいだった。
「アイラ、俺は怪我をしたことに怒っているわけじゃない」
「え? だって・・・」
 今も不機嫌そうに見えるし、口調も冷たい。到底怒っていないようには見えない。
「怪我をしたのなら、ちゃんと手当をして無理をするな。お前はもっと自分の体を労われ」
 思いがけないその言葉に、アイラは目を見開いて夫を凝視した。
 長椅子の上に上体を起こしたアイラの横に自分も腰を下ろしながら、ヒルメスはいつものように妻の亜麻色の髪を手で梳き始める。
「怒ってなどいない。だが、叱る気持ちならばある」
 そうしてまた一つため息をついたヒルメスは、細い肩を自分の胸元に抱き寄せて髪の間から見え隠れする耳元に顔を埋めた。
「体を蔑ろにすることなど許さんぞ、お前は俺のものなのだから」
 情事の時を思わせる声音で低く囁けば、頬どころか顔全体を赤らめて絶句した妻の様子に満足気に口角を上げたヒルメスは、妻を腕の中に閉じ込めたその状態を今しばらく堪能することに決めたのだった。


幸福の中のある出来事



【あとがき】
 すみません、ヒルメスにお姫様抱っこ&跪いて欲しくて筆が暴走しました。ヒルメスが激しく偽物。でも悔いはありません!(笑)
 結婚後も初心な夢主が可愛いヒルメスです。時期的には結婚したてくらいです。
 頬を赤らめる夢主を見ていると悪戯心がくすぐられます。「俺のもの」発言も、このIF編のヒルメスに言われるとただただ赤面するだけですね(笑)
 タイトルは「小話その一」みたいな感覚で付けたので深く考えないでください。
 久しぶりにほのぼのした二人が書けて満足です。
 では、ここまで読んで頂きありがとうございました。


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