「リンドウの花を君に」IF編

□愛を信じられたなら(後編)
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《夢主がヒルメスと一緒に行動していたら》
・「愛」シリーズver.夢主の懐妊話。
・夢主とヒルメスが普通に恋人(狂愛的ではないです)
・前後編(前編はサームのみ登場。ヒルメスは後編に登場)
・前編から順にお読み下さい。


* * *


 ヒルメスの帰りを待つ時間はとても長く感じられた。
 窓際に移動させた長椅子にゆったりと腰掛けて、繊細な透かし彫りの格子窓から見える空を振り仰ぐと、まさに晴天と呼ぶべき雲ひとつない美しい青が果てしなく続いている。
 その雄大な青空とは裏腹に、アイラは落ち着き無く視線を彷徨わせながら、何度もため息を重ねていた。
 食は相変わらず進まず、無理に食べてみても吐いてしまうだけで、吐いてしまうと余計に体力を使ってしまい、と堂々巡りをしている。今のところは自身の薬草の知識を全開に活用してなんとか体調を保ってはいるが、これではいつ倒れてもおかしくはないと自分でも自覚していた。
 はっきりと身篭ったことを自覚してから後の数日は、ヒルメスの部屋から一歩も出ていない。元々ルシタニアの王や貴族や兵たちの目から隠れるように、ヒルメスに囲われていたから、それ自体には慣れて来てはいた。
 けれど、いざ自分の体が心元ない状態に置かれるとそれまで気丈に振舞っていた分、途端に閉塞感と敵中にいるという緊張感が襲ってくるのだった。
 療師としての自分に言わせてみれば、体調と気分が優れないのも、それらの精神的な要因が大きいのだろうと、胃の不快感を深呼吸でごまかしながらアイラは思った。
「こんなに弱かったのね、私・・・」
 それなりに順応性は高いほうだと思っていた。
 薬草採取のために異国で何ヶ月も過ごした経験もあるし、普通の女子なら泣き出すような血臭と死臭が蔓延する戦場にも何度も行った。
 だから、多少のことでは動じないと思っていた。それなのに。
「情けないわ・・・ほんとに」
 広い寝台にひとりで休むことがこれほど堪えるなんて。
 そばに誰もいない生活がこれほど寂しいなんて。
 少し前までは思いもしなかった。
「・・・・・・ヒルメス様―――早く、戻ってきて下さい・・・」
 祈るように目を瞑る。目蓋の裏に乞うて止まない人の顔を思い浮かべて、囁くように呟いた。
 やがて眠りについたアイラの頬を、一筋の涙が伝い流れていく。
 その雫はいつの間にか現れた影が差し伸ばした手の中にぽたりと溢れ落ちた。


 ペシャワール城から王都エクバターナへと帰陣したヒルメスは、自分を呼んでいるというルシタニアの王弟ギスカールの使者を適当にあしらいつつ、足早に自室を目指していた。
 道中、伝令に来た部下からアイラの様子がおかしいとの報告を受けていたのだ。
 アイラにはサームや護衛の兵をつけているから、危害を加えられることは万に一つもないが、もしもということもある。
 逸る気持ちを抑えつつ、自室の扉を力任せに押し開けて中へと入る。
 いつもならすぐに顔を出すアイラの姿が見えないことを不審に思いつつ寝室へと続く扉を開けば、空の寝台の向こうに置かれた長椅子の上に、丸くなって眠るアイラの姿を見つけて人知れず安堵のため息をつく。
 音を立てずにそばまで近寄って、顔を覆う邪魔な仮面を外しながらその場に膝をつくと、顔色を見ようと手を伸ばした。
 ぽたりと濡れたものが手に落ちてきたのはその時だった。
 はっとしたヒルメスは顔にかかる髪をそっと退ける。
 眠るアイラの頬を涙が伝い落ちていた。顔色も悪く、心なしか痩せたようにも見える。 お腹を抱えるように小さく丸くなって眠るアイラはどこか苦しげだ。
「ヒルメス、さま・・・」
 寝言だろうか、薄く開いた唇から自分の名前がこぼれ落ちて、目を細めたヒルメスは折り曲げた人差し指の背で濡れた頬をもう一度拭い去った。
「ん、・・・・・・」
 ゆっくりと翡翠色の瞳が開かれていく。
 つかの間ぼんやりと宙を彷徨っていたその瞳が、目の前にしゃがみ込んでいるヒルメスの姿を捉えるや否や、せっかく拭ったというのにみるみるうちにアイラは目元を潤ませた。
「ヒルメスさま・・・っ、ヒルメス様――!」
「どうした」
 あまりにも必死に自分の名前を呼ぶ声にしっかりと答えてやれば、目の前にいるのが幻でないと分かったのか、恐る恐ると言った様子で首に手を回されてぎゅっと抱きつかれる。
 肩口に顔をうずめて、幼子のように泣いているアイラの腰を抱いてその体ごと長椅子の上に引き上げる。
 ヒルメス自身も柔らかなクッションの上に腰を下ろして、一向に離れようとしないアイラを膝の上にのせ、亜麻色の髪を撫でながらその耳元で問いかけた。
「何があった」
 びくりとアイラの肩が震える。
 ヒルメスが辛抱強く答えるのを待っていると、ようやくアイラは顔を上げて視線を合わせた。
 固唾を飲んで緊張している様子のアイラの顎を指先ですくい取って、触れるだけの口付けを落とす。
 何度も、何度も、ヒルメスからしてみれば物足りないだろうそれを、ヒルメスはこの世にただ一人アイラのためだけにした。
 潔くけじめを付けたアイラはヒルメスに向かい合う。
「あの、ヒルメス様・・・」
 素顔が晒したヒルメスの端正な面立ちを真っ直ぐに見つめて、アイラは口を開いた。
「子を、っ・・・・・・御子を、授かりました・・・っ」
 ヒルメスの顔が、アイラが思わず背筋を伸ばしてしまうほど真剣な面持ちに変わる。
 その口から何を言われるのか待っているのが怖くて、アイラは俯いてぎゅっと目を閉じた。
「・・・それは、本当か」
 もう声も出せなくて、俯いたままのアイラはこくりと頷く。
 ゆっくりと息を吐き出す気配がしたと思った次の瞬間、アイラはヒルメスの腕の中に抱きしめられていた。
「よくやった」
 すべての感情を詰め込んだような、その掠れた低い声は、アイラの胸に染み渡った。
 今まで一人で抱えていたものが、そのたった一言によって瞬く間に溶かされていく。
「厭わないのですか・・・こんな、大変な時に・・・・・・私は、貴方様の荷物ではありませんか」
「馬鹿を言うな。厭うはずがなかろう。お前たちを守れぬほど、俺は弱くはないつもりだが」
 お前たち、とヒルメスは言った。
 その言葉が嬉しくて涙が止まらなかった。
「相も変わらず、お前は泣いてばかりだな」
 口元に手を当てて泣き崩れているアイラを愛おしげに見つめながら、ヒルメスは自分が留守にしていた間、心細い思いをしていただろうその痩躯をしっかりと抱き寄せる。
 全く見当違いの要らぬ心配をして、自分の荷物になることを恐れるアイラが、ひどく愛しい。
 愛しい女に自ら乞うて抱くのにその気がないはずがない。むしろ、子が出来ればより強い縁で結ばれることが出来るとさえ、ヒルメスは思っていた。
 厭うはずがない、見捨てるはずがないというのに。そうすることができないほど、互いが互いにとって深い存在になっているのに。
 愛いことだ、とヒルメスは薄く微笑む。
「そんなに泣いてばかりいると体に障る。いい加減に泣き止まぬか」
「は、い」
「まったくお前は・・・」
「だって、子を授かったと知って嬉しくて堪らなかったのです。だから、もしヒルメス様に拒絶されたらどうしたらいいのかと、不安になって」
「俺がお前を捨てると思ったのか」
 あくまでヒルメスの本懐はアンドラゴラス王に復讐し、パルスの国王になることだから、その妨げになればヒルメスはどんなものでも切り捨てるとアイラは思っていた。
 けれどそう考えること自体、アイラがヒルメスのことを信じきれていなかった証だったのだ。
「そばにいろと、何度も言ったはずだぞ。これから先、何があってもそれを違えるな」
「はい・・・!」

 信じたい、信じ続けようと思った。心から愛する、この人を。
 そうして互いに信じ合えたなら、未来はきっと拓かれる。


愛を信じられたなら(後編)



【あとがき】
 書き切りましたー! すごい達成感です(笑)
 お互いに傷つけ合って、いっぱい辛い思いをして、それでもそばにいることを選んで、その先の一歩を踏み出した二人を書いてみました。
 「愛に殉じる代償」で吹っ切れたのかな、夢主。本格的にヒルメスについて行く決意を固めた様子です。ヒルメスの方はずっと前から夢主を逃がすつもりはなかったようですけどね(笑)
 復讐のためだけに生きてきたヒルメスの中に、夢主と新しい命という守るべきものが増えたことでヒルメスがどのように変わっていくかが今後の見ものです。
 IF編ですが、本編として書けそうな気がしてきました。じっくりゆっくり書いていきたいと思います。
 ここまでお読み頂きありがとうございました。
 今後もこの二人の成長を見守ってやって下さいませ。


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