「リンドウの花を君に」IF編

□幸福の中のある受難(前編)
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《もしもヒルメスが銀仮面卿にならなかったら》
・雷が苦手な夢主をヒルメスが慰める話


* * *


 パルス随一の港町ギランを眼下に見渡す高台に、ヒルメスとアイラの暮らす屋敷はひっそりと佇んでいる。
 屋敷といっても、夫婦のほかに通いの下人たち数人が出入りするだけの家であるから、それほど大きくなく、ヒルメスとアイラの身分を思うとかなり質素な家だと言えた。
 それでも、夫婦にとってはその静謐さが好ましいのだ。
 日中せわしなく働いていた下人たちもめいめいの仕事を終えるとそれぞれの家へと帰っていった。今朝からヒルメスが出かけている今、屋敷に残るのはアイラ一人だ。
 薬院が休みであったアイラは日がな一日、絹の国で書かれ、貿易船を介してギランへと届いたばかりの薬学書を読み進めることに没頭していた。
 絹の国の書物はもちろん、パルスとは異なる文字で書かれている。画数が多く縦書きで、一文字に単語や熟語の意味が込められた象形文字が絹の国の文字だ。
 これを読み解くことのできるパルス人は案外少ない。
 彼女の三つ歳上のパルス一の頭脳を持つ友人もその内に含まれるが、女性でこれを読むことができるのは彼女くらいのものだろう。
 そもそも女の身でありながら、教養以上の学を身につけるのもまた稀なことであった。
 そんな稀な存在であるアイラは、食事以外の一日を書物に費やしていたのだが、もう日も暮れようかといった時間になって突然降り出した雨の音に気付いて、その集中を途切れさせた。
 書物を膝の上に抱えたまま、薄絹がかけられた窓の外へと視線を手繰らせる。大粒の雨が後から後から降ってきて、みるみるうちに曇天へと変わっていった。晴れる日の多いパルスには珍しい豪雨である。
 開けたままの窓からも雨が入る勢いだったので、書物を置いたアイラが立ち上がった瞬間、その視界の隅で真っ黒の雲に覆われた遠く空に鋭い閃光が走った。
 刹那を置いて、雨音に負けじと雷鳴の轟音が地面を伝って響き渡る。
 腰を浮かせかけた状態のまま固まっていたアイラは、大きく息をのんで悲鳴を押し殺すと、そのままその場にうずくまり、両手で力いっぱい耳をふさいだ。
 立て続けに数度、鋭い稲妻が光る。そしてまた、大地を揺るがす轟音。
 うずくまったまま耳を塞いだ状態のアイラは、雨が降り入る窓を閉めることも忘れたまま、ぎゅっと目を瞑って肩を震わせる。空が光るたび、音が鳴るたび、アイラはびくりと体を縮み上がらせた。
 腕の立つ療師として男顔負けの気概と豪胆さを持つアイラにとって、雷は唯一といっていいほどの弱点だった。それを知っている者は幼馴染の二人と、療師の師匠、そして、もう一人。
 アイラが唯一弱音を吐き、自らの恐怖心を曝け出すことのできるその人は、出かけたきり、まだ帰ってきていない。それどころか、屋敷にはアイラ以外にはひとりもいないのだ。
 心細いことこの上ない。耳を塞いだまま、恐る恐る目を開けたアイラは、目尻に溜まった涙をぬぐうこともできず、ふらふらと視線を彷徨わせた。
 どこか隠れる場所は。
 とにかく、できるだけ雷から遠ざかりたい。
 しかし、部屋の中を見渡しても、書斎に隠れる場所があるはずもなく、アイラは絶望的な状況の中でひたすら雷が鳴りやむのを待つことしかできない。
 ただ願うのは、一刻も早く、夫が帰ってきてくれることを望むばかりだ。
 その切実な願いが届いたのか、玄関の木戸が開かれる音が響いた。こつり、こつりと重い革靴の足音は、下人たちではありえない。
 その足音が誰のものかであるか考える暇もなく、アイラは人目もはばからず一目散に駆け出した。
 扉を半ば体当たりで押し開けて、廊下を走り抜けると、その先に濃色の外套を見つけてその大柄な体躯に勢いよく縋り付く。
「ヒルメス!!」
 頬に触れた外套は雨に当てられたのか、濡れていて冷たい。それでも、心細さに耐えきれなかったアイラにとってはこの上なく心強いぬくもりに感じられた。
 突然抱き付いてきたアイラに驚くでもなく、その小さな体を抱き寄せたヒルメスは、妻の頬に伝う涙を見止めて目を細める。
 その雫を指先でぬぐい、小刻みに震える肩を慰めるように擦りながら、帰ったばかりのヒルメスは、雨で濡れて顔に落ちかかっていた自らの前髪を乱暴にかき上げた。
 仕事が終わり帰路につこうと馬に跨ったとき、ふと東の空を見て雲行きが怪しいことに気付き、屋敷にひとり残る妻を思った。
 大抵のことには動じず、いつも凛としている妻が雷のことに関しては幼子のように怯えるのだ。
 できる限り馬を飛ばしてきたが、あと一歩のところで降られてしまった。間に合わなかったかと悔いながらも、土砂降りの中を疾駆してようやく屋敷へと戻ったのだった。
 自身が濡れることも厭わず、胸に抱き付いているアイラをヒルメスもまた強く抱き返す。
 遠くの空でまた雷が落ちる音がした。
「……大丈夫か」
 大丈夫ではないだろうなと思いながらも、かける言葉が見つからない。苦手なものはどうしても苦手なのだ。ヒルメス自身にも当てはまることだった。
 しかし、その苦手や恐怖に感じるものに対し、一人で立ち向かうのと、誰かと共に立ち向かうのとでは大きな違いがあるのだとヒルメスは思う。
 顔を埋めたままのアイラがこくりと小さく頷く。肩の震えはようやく治まろうとしていた。
「ごめんなさい、みっともなくて」
「謝る必要はない」
「でも、私のせいで濡れてしまったのでしょう?」
 帰路を急がなければ、どこかで雨宿りすることだって出来ただろう。けれど、ヒルメスは家でアイラが一人でいることを知っていて、この豪雨の中を自身が濡れることも厭わずに全力で駆けてきてくれたのだ。
 そうさせてしまった自分が情けなく感じた。
 遠くで鳴り続いている雷に気付かないふりをしながら、顔を上げたアイラがぎこちなさを隠して微笑む。
「ありがとう。もう大丈夫よ……早く着替えて温まって。それとも先にお湯を使う?」
 ヒルメスは明らかに空元気なアイラの様子にしばし逡巡した後、おもむろにその体を抱き上げる。濡れて腕にまとわりつく外套に手を取られながらも、アイラ一人は軽々抱え上げることができた。
 一方、突然の夫の行動に驚いたアイラは目を丸くして、横抱きにされた自身の体をヒルメスの顔を交互に見る。
「どうしたの、ヒルメス?」
「お前も濡れただろう」
 確かに、はばかりもなく外套に抱き付いたアイラの服には、水滴が濃い染みを作っていた。
「私はいいわ、あとでお湯を使うから。貴方のほうがびしょ濡れだもの」
「ともに風呂に入れば問題なかろう」
 真面目な顔をして何を言われたのか、理解した瞬間、アイラは一瞬雷のことすら忘れて目を見開いて固まった。それから、口をパクパクさせて、頬を赤らめる。
「ヒ、ヒルメスッ、私はあとでいいから。おろして、」
「俺が風呂に入る間、雷は止んでくれんぞ」
 それは、確かに、非常に、困る。
 一人でなんて耐えられる自信はないし、雷はまだまだ止みそうにない。
 思わず、アイラは目の前の夫の首に抱き付いた。気を反らそうと必死になっていたが、雷はやはり怖い。怖いものはどうしたって怖い。
「大人しく風呂場へ行くぞ」
「ぅ、…でも、恥ずかしい」
 浅からぬ仲とはいえ、今まで一度も一緒に入ったことはない。ヒルメスはともかくアイラは恥じらう心を持っているし、異性の体を間近に直視するのもできれば避けたい。だってヒルメスの鍛え上げられた裸体は目に毒だ。
「なら、雷に耐えるか?」
 ここまで来るともうほとんど意地悪げにヒルメスは聞いた。途端に首に回された腕の力が強くなる。
「やだっ、ひとりにしないで……」
 怯えたような、頼り気ないこの声には、理性の向こうで感じるものがある。どこか甘やかなその声と涙に濡れる翡翠色の瞳を見て、ヒルメスは不謹慎にも心臓を躍らせざるえなかった。
 それ以上の返事を待つこともせず、ヒルメスはアイラを抱えたまま歩き始める。
 アイラの方ももう抵抗はしなかった。ひとりにされるくらいならと半ば諦めの境地で、ヒルメスに抱えられるがままだ。
「雷が気にならなくなるくらい、存分に甘やかして鳴かせてやろう」
 愛しの妻を腕に抱いたまま、その耳元でヒルメスは囁いた。


幸福の中のある受難(前編)



【あとがき】
 これ、続くのでしょうか。(笑)
 そんなつもりはなかったのですが、ヒルメスが暴走しそうです。裏的な意味で。(笑)
 ご要望があれば書かせて頂こうかな…。最近裏話を書いていない気がしますし。
 久々の更新です。よろしくお願いします。
 追伸。新しいPC、キーボードが打ちにくいです。キーの配置と幅が微妙に違います。慣れるまで大変…。


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