「リンドウの花を君に」IF編

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《もしもヒルメスが銀仮面卿にならなかったら》
・IF編「幸」シリーズ軸。本編とは無関係
・マルヤムで再会したばかりのヒルメスと夢主の話の第3話
・今回は甘めで長めです。大詰めです。


* * *


「あの、失礼いたします」
 わずかに緊張した様子の静かな声が、ヒルメスの耳朶をくすぐる。
 記憶の中で聞き知っていた幼子のそれよりも、柔らかさと穏やかさの増したその声が心地良いと、ヒルメスは思った。
 自室の長椅子に腰かけているヒルメスの顔色が良いことを見て取って、アイラは小さく微笑む。
 顔色はいいが、調子はどうだろうか。師の薬はよく効くが、前に言っていた痛みはなくなっただろうか。どこまで尋ねてもいいだろうか。
 眼帯に隠した火傷の痕をアイラは見たことがない。ヒルメスは師が診療を行うときにしか、眼帯を外さないからだ。他人に見られたくないと思っているのだろう。
 その気持ちはアイラにもわかる。わかるが、自分にも隠そうとするヒルメスの拒絶に、少し寂しい気になるのもまた事実だった。
 離宮を案内してきた下人は気を利かせたのか、アイラを部屋へと招き入れるとそそくさと去っていったため、広々とした空間にはヒルメスとアイラの二人だけしかいない。
「薬をお持ちしました、ヒルメス様」
 ヒルメスは返事をする代わりに、部屋の扉のそばに佇むアイラに目を向ける。少し遠いアイラとの距離が今日はひどく癇に障る。
 アイラはヒルメスが促さない限り、それ以上近づこうとしない。パルスの王族に対する礼儀か、ヒルメス自身が拒絶していると思っているのか。
「お加減の方はいかがでしょうか。何か気になることがありましたら、師に伝えさせて頂きますが……」
 再会してからというもの、どこか他人行儀なアイラの態度が気に食わない。
 会うことが億劫になるのも、それが原因だった。自分に対して遠慮するアイラの姿を見ることが不快だった。
「ヒルメス様? どうかなさいましたか」
「――アイラ」
「はい」
 小首を傾げるアイラに、ヒルメスは無言で手招きする。アイラは小さく目を見張ってから、おずおずと長椅子の前へと移動すると、絨毯の上に両膝をつく。
「手を」
 そう言ってヒルメスは自身の手を差し出す。反射的にその手に自分の手を重ねかけたアイラは、途中ではっとして尻込みした。
 失礼ではないだろうか、とか、ヒルメス様らしくない、とか、答えの出ない問答を心の中でくり返しているアイラの百面相を見て、ヒルメスは目を細める。
 驚くと幼さが戻ってきたようで、懐かしい気にさせた。
「早くしろ」
 さほど苛立ってもいない声でヒルメスが言うと、ようやくアイラは大きな手に自分のそれを重ねる。
 白く細い手が触れた瞬間、ヒルメスはその手を取って自分の方へと引き寄せた。
「ヒルメス様!?」
「うるさい」
 体勢を崩したアイラが倒れ込んでくるのを、細腰をさらって受け止める。自分が座る長椅子にアイラの体を下ろすと、アイラの手から薬瓶を入れた包みを奪って脇へと下ろす。
 なぜか長椅子に座らされたアイラは意味もなく顔を赤らめて、早鐘を打つ心臓を抑えようと必死になる。突然で驚いたことよりも、ヒルメスに接近している今の状況の方がずっと心臓に悪い。
 隣に座るヒルメスを直視できなくて、アイラは膝の上で握り閉めた手に視線を落とした。
 うるさい、と言われた手前、口は開けない。かと言ってこのまま長椅子に無言で座り続けられるほど、アイラは異性に慣れていなかった。
「嫌か」
 咄嗟に何のことを言われたかを理解できずに、アイラはヒルメスの顔を見る。その横顔に、アイラははっとして息を飲んだ。
 寂しいような、痛みをこらえるようなそんな表情に見える。実際には、普段と変わらなかったかもしれない。けれど、アイラにはなぜかそう思えた。
「嫌では、ありません!」
 気付けば思わず、そう口にしていた。言ってから、今のはおかしい返事だったのではないかと思って、おろおろと動揺する。
 ヒルメスの方はそんなアイラにはとんとお構いなしだ。
「敬語」
「はい…?」
「やめろ」
「……え?」
「やめろと言った」
 アイラはヒルメスの顔をまじまじと見つめてしまう。
 そして場違いにも、瞳の色がきれいだなとか、そんなことを思った。
「昔はそんなこと、気にもしなかっただろうに。今更何を畏まる必要がある?」
 それはまあ、確かにそうだった。アイラは遠い目をして口元をひきつらせた。
 幼い自分はヒルメスに対してあまり敬語というものを使った記憶がない。でもそれは幼子の無知ゆえで、さすがにこの歳になれば社会の常識というものも学んでいる。
「昔と今とでは、いろいろと違うことも……」
 身分や立場、それらも理解した。無知ゆえに、無邪気にヒルメスを慕っていた幼い頃とは同じようにいかないものもある。
 国を追われても、ヒルメスはヒルメスのまま。それと同時に、王子は王子のままなのだ。
「お前は俺の許婚であったことを忘れたのか」
 確かにそうだった。今はもう、昔のことだけれども。あまり周囲には知られていなかったが、当時の国王であったヒルメスの父王が、祖父バフマンに言ったのだ。
『アイラが息子に嫁いでくれたなら、よいのになあ』
『陛下、それはいささか先走りすぎではありませんかな。某の孫娘はまだ、十にも満たぬ幼子ですぞ』
『なんだ、バフマン。我が息子では不満か』
『いいえ、まさか。滅相もございませんが……』
『であればよかろう。ヒルメスもアイラならば応じよう』
 それからすぐ、ヒルメスの父王は帰らぬ人となったため、その話は広まることはなかった。
 正式なものではない、口約束。戯言と言えばそれで終わってしまうようなそれを、ヒルメスは今まで覚えていたというのだろうか。
「お前にはもう過去のことかも知れぬ。今の俺には何もない。地位も名誉も、何もかも」
「……何もないことはありません。ヒルメス様を大切に思っている方はたくさんおられます」
「どうだろうな」
「祖父も私も、貴方を忘れた日など一日たりとてありませんでした」
 ヒルメスの鋭い眼光に射抜かれると、体が熱くなる気がした。湧き上がるこの感情は、恐怖ではない。それはまぎれもなく――。
「ヒルメス様、ご自身を卑下するような言い方はお止めください」
 感情すら忘れかけたようなヒルメスを見ていると、アイラは胸が痛くなる。
 ずっと、たった一人で痛みに孤独に耐えてきたのだと、思い知らされる。どうしてもっと早くに見つけることができなかったのかと、自分を責めたくなった。
「貴方にもう一度逢えたとき、私がどれほど嬉しかったのか、貴方はご存知ないのです」
 ――熱くて、切なくて、喜びにも似たその感情が、人を愛する気持ちなのだと。ようやく気付づくことができた。
 幼子の憧れや慕う気持ちが、好きという気持ちに結びつき、そして、愛へと変わる。
「ならば、他人行儀な物言いをやめろ」
 ずい、とヒルメスの顔が近づく。
「俺を厭う気がないならば、昔のように俺のそばにいろ」
 昔のように、なんてできるはずがないのに。鼻先が触れ合うほどに近づいたヒルメスの顔から、視線をそらした。
 頬を赤く染めているアイラをみて、ヒルメスが喉を鳴らす。
「意地悪を言わないでください」
 そばにいるだけで、心臓が破裂しそうなくらい緊張する。手を重ねるだけで、触れられるだけで、体が熱くなる。
 昔のように――この感情を知らなかった頃のようになんて、なんてできるはずがない。
 ヒルメスはすべてを見透かした上でこんなことを言うのだ。自分だって、数日前まではよそよそしい態度を取っていたくせに。最後の最後には我を通すのだ。
 いつだって。
「ああ、そうだな。昔のように無防備に向かって来られれば俺も困る」
 いろいろと我慢できなくなるからな、とアイラの耳元でヒルメスが囁く。
 林檎のように真っ赤になったアイラの頬に、触れるだけの口づけを落として、ヒルメスは悠然と笑う。
「返事を聞こうか」
「そばにいても、良いのですか……? 私は、貴方に見合うような――」
「――アイラ。お前は先ほど、俺に自分を卑下するなと言ったように思うのだが。俺はお前の本心が聞きたい」
「……貴方が、好き」
 何の飾り気もないその言葉に、ヒルメスは心にぽっかりと空いていた隙間が満たされていくのを感じた。自身の肩口に額を押し付けて、震えている小さな肩に愛しさが募っていく。
「ヒルメスさま、……好き、好きなのです。ずっと、ずっと貴方のことが、好きでした。貴方に逢えない日々も、ずっと貴方のことばかり考えてしまって……苦しくて、逢いたくて……」
 頬への口づけだけでは、とても満足できそうにないと、ヒルメスは思った。
 顔を見たくて身を引くと、すがり付くようにぎゅっと上着の端を握られる。その手を握り、顎をすくい取るとゆっくりと上を向けさせる。
 アイラが涙に濡れた顔を隠すために頭を振ると、ヒルメスは咎めるように、より近くに引き寄せた。
 ヒルメスは建前にこだわって、口先で言い訳を考えて、アイラを遠ざけようとしていた。
 だが、最初から自分の答えは決まっていたのだ。おそらく、それはずっと昔から。
 ――他の何を失っても、アイラだけは諦められない。
「ヒルメス様」
 名を呼ぶその唇に誘われるように口付ける。
 ずっと望んでいたぬくもりが腕の中にある。
 自分を恋しいと言って泣くこの娘を、どうして手放すことができようか。



【あとがき】
 筆の勢いに任せていたら、随分長くなりました。
 普段、おしどり夫婦みたいな二人を書いているので、甘酸っぱい青春みたいなお話を書けて楽しかったです(笑)
 ヒルメス、やっぱり強引&上から目線ですね。自分で言わないで、夢主に言わせるとか←
 身分とか立場とか、互いに様々な葛藤を抱えた中で、それでも一緒にいたいと願う二人の気持ちが伝わっていると嬉しいです。
 次回は敬語と敬称を止めさせようとするヒルメスとか、眼帯を外してほしいと迫る夢主とかのお話を書きたいです。お楽しみに。


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