「リンドウの花を君に」IF編

□君と在る幸せをかみしめる
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《もしもヒルメスが銀仮面卿にならなかったら》
・「小さな命に幸あれと」と若干続いていますが単体でも読めます
・内容的には夫の身支度を手伝う妻と、無条件で互いを信頼し合っている夫婦と、挨拶を欠かさない夫婦が書きたかっただけの小話


* * *


 晴れ渡った空に昇る太陽の光が、開け放された窓をすり抜けて寝室に差し込む。
 潮風も強すぎず、馬で駆けると気持ちがいい気候だ。
 屋敷の外にある厩では、ヒルメスの愛馬がその出番を今かと待っていることだろう。
 身支度を終えたあと、いつものように長椅子に腰を下ろしたヒルメスの背後に回り込んだアイラは、膝立ちになって目の前の黒髪に指を入れる。
 硬質そうにみえて以外にも柔らかい黒髪を撫でながら、柔らかく鞣した革の眼帯をそっと当てて、後頭部で革紐を結ぶ。
 きつすぎず、緩すぎずという力加減は中々難しいものだが、ほぼ毎日続けていれば段々と手早く結べるようになってきた。
 眼帯の紐を結ぶという一連の流れは、結婚してから習慣になったものだった。
 結んだ紐の上から髪を被せて整えたアイラは、ヒルメスの横顔を覗き込む。
「どう? 髪を引っ張っていたり、痛かったりするところはない?」
 ヒルメスは他人に対して警戒心が強い。剣を扱う者の性か、あるいは過去のことが影響しているのかもしれないが、自分の背後に他人が立つことを嫌う。
 だからヒルメスが人に眼帯を付けさせるのはアイラだけだった。
 もっとも、そもそもヒルメスが眼帯を取るのはアイラとごく限られた者のうちの話だが。
「問題ない」
 頷いて腰を上げたヒルメスに倣って、アイラも立ち上がり、今度は長椅子の背にかけてあった黒い外套を手にとる。
 背中側から肩にかけて、正面に回って背伸びをしながら、首の下にある金属の留め具を止める。このとき、ヒルメスが自然と前かがみになるのも、互いに慣れている証拠だ。
 これも習慣のひとつだ。ヒルメスはもちろん自分一人で身支度を整えることはできるが、アイラがこれらの作業を実に楽しそうに行うので、されるがままにやらせていた。
「はい、お待たせ」
「ああ」
 一歩引いたアイラを追いかけて、ヒルメスは一歩前に出て上体をかがめる。
 口で礼を言う代わりに亜麻色の髪にそっと口づけると、アイラは頬を薄っすらと染めて、はにかんだ。
 一瞬のち、名残惜しくなる前に身を引くと、左手を伸ばして壁に立てかけていた剣を掴む。
「いってらっしゃい」
「行ってくる」
 こうして挨拶を交わし合うことももう随分続けているが、ヒルメスは未だにこの台詞を口にすることにこそばゆいものを感じる。
 おかげで何度言っても言い方がぶっきらぼうになってしまうが、妻はそんな自分の気持ちもお見通しなのか、頬を緩めて微笑んだ。
 名残惜しくなると知りつつ、別れ際にもう一度だけ淡く色付いた頬に唇で触れてから、ヒルメスは屋敷を後にした。


 ヒルメスを玄関先で見送ったアイラは、その日、療師の仕事がなかったため、久々にひとりの時間を持て余していた。
 普段なら、ここぞとばかりに読書に勤しみ、あるいは一日じゅう明け暮れるのだが、この日は生憎と珍しく分厚い書物を手にとる気分ではない。
 厩と厨で働いてくれている通いの下働きの者たちをねぎらった後、再び私室へと引き返したアイラは、体が重くなるような倦怠感と眩暈を覚えて、先ほどまでヒルメスが腰を下ろしていた長椅子に自身も体を預けた。
 無意識にヒルメスの残り香を求めている自分に呆れつつ、ゆっくりと深く息を吐き出して、ぼんやりと天井をながめる。
 しばらくそうしてじっとしていると、眩暈は徐々に消えていくので、ほっと息をついてから改めて体を横に倒した。
 自身の体調不良の原因はわりと明確に分かっているため、心配はしていないが、確定的とまで言い切れない段階であるので、ヒルメスには言っていない。
 とはいえ、敏いヒルメスは自分の不調に気付いていることだろう。
 それほど深刻なものではないし、何よりアイラ自身の療師としての腕を信頼してくれているからヒルメスは何も言わない。
 口にしなくとも、そばでそっと見守ってくれるヒルメスの優しさが、アイラには心地よかった。
 早々に根掘り葉掘り理由を聞かれても、今はまだ返答に困る。心の準備というか、何というか、気持ちを整理する時間が必要だと思うからだ。
 もちろん夫に話せないような後ろめたい事情はないし、もし自分の予感が当たっているのなら喜びと嬉しさを感じるが、これは中々、神経質になりそうになる問題でもあった。
「このまま一人で抱え込んでても埒があかないわ……師に一度、相談を――でも、最初に報告するのはヒルメスにしたいし……」
 自分よりも先に、父親代わりとはいえ他人に、それも男性に知らされるのは、ヒルメスが快く思わないのではないだろうか。
 そう思って、目を閉じてしばらく考える。
 アイラの身の回りでそういった内々のことを打ち明けられる同性の友達は、割と少ないが、ひとり適任者を思い出す。
 友達ではないが、良くしてもらっている女性がいる。それも既婚者で子供もいる。
 たおやかで、女性らしく、それでいて芯の強い女性。アイラにとって、女としても母としても目標にしている女性だった。
 師が若い頃、絹の国から半ば掻っ攫うようにして連れ帰ってきた女性だ。師とはもう随分長い間連れ添っているが、夫婦仲は周囲が羨むくらい良く、理想の夫婦だと言っても過言ではない。
 相談相手にはもってこいだと思って、師の留守を見計らって会いに行こうと頭の中で算段を付ける。
 突破口と呼ぶべきか、解決の糸口が見えると俄然心が落ち着いていく。思いのほか、気を張っていたらしい。
 長椅子に横になったまま、アイラは肩を竦めて苦笑する。
 頭の下に敷いた正方形のクッションの心地よい柔らかさに目を閉じると、微睡みの中に意識を預けた。


 陽光の暖かさの中でしばらくうとうとしていたアイラは、玄関先から聞こえてきた馬の嘶きで目を覚ます。
 どうやらヒルメスが帰ってきたらしい。用事にはさほど時間がかからなかったようだ。
 ヒルメスの行動もアイラ自身の行動も、遠出や重要なもの以外は伝えていかないことが多い。互いが互いを信頼し合っているし、ヒルメスもアイラも一人でいる時間も好きだったから、過度に干渉しあわないようにしていた。
 それを同世代の他の夫婦に言うと、あり得ないだとか、どうして信じられるのだとか驚かれるのだが、ヒルメスのことならばアイラは無条件で信じられた。ヒルメスの方もそうであると嬉しい。
 寝起きのぼんやりした頭を抱えながら、夫を玄関先で出迎えると、下働きの者に馬を預けていたらしいヒルメスは少し目を細めて自分を見た。
「眠っていたのか?」
「実は今さっき、目が覚めたところで……ごめんなさい、みっともなかったわよね」
「いや、そうではないが――具合が悪いのか?」
 手早く外套を外しながらアイラの近くに歩いてきたヒルメスは、外套を受け取ろうとする手を制しながら自分の腕にひっかけ、その腕を細腰に回してもう片方の手で細い顎をそっと持ち上げる。
 合わさった視線の中でアイラが一瞬だけ目を見張って気まずげに彷徨わせたことに気付いたが、それ以上立ち入って聞くべきか、ヒルメスは悩んだ。
 ここのところ、アイラが体調を崩し気味であることは知っていたし、その原因に心当たりがないわけでもないヒルメスは、妻の方から口にするのを待っていた。
 ヒルメスの方から聞けば、催促しているように思ってしまわないか不安だからだ。
 急くことでもないが、本音を言えばそうであればいいとは思っている。
 もししばらくしてもアイラが言い悩んでいるようなら、頃合いを見て話を聞こうとも思っていた。
「少し眩暈がしたから軽く休んでいたのだけれど、そんなにひどくはないから大丈夫よ。ありがとう」
「無理はするな。出迎えなどよいから遠慮せずに休んでいろ」
「ふふ、心配性ね。でも本当に大丈夫、横になっていたら良くなったから」
「そうか?」
「ええ」
 しっかりと頷いた妻が恥じらいながらも可愛らしく腰に抱き付いてくるのを、珍しいと思いつつ軽々と受け止める。どうやら今日は甘えたい気分らしい。
 普段は凛としているアイラのたまにしか見せない甘えだ。夫として応えないわけがない。
 いつの間にか下働きの者たちは、気を利かせたのか奥に引っ込んだらしい。これ幸いと、ヒルメスは眼帯を結ぶ紐をほどくと素顔を晒す。
 触れるだけの柔らかい口づけを唇にひとつ、それから、白い首筋にもうひとつ。
 白い手を取って自身の肩に回すように言うと、腰と膝を両腕ですくい上げる。
 もしかしたら、命が芽吹いているかもしれないお腹に負担をかけないよう、労わりながらしっかりと横抱きに抱き上げると、アイラはぎゅっと首筋にしがみついてくる。
 照れながらも嫌がるそぶりはない。むしろ、嬉しそうに口元をほころばせて幸せそうに微笑むものだから、ヒルメスも釣られて頬を緩ませる。
 夫の腕の中で、アイラは広い肩口に頬をすり寄せると、はっとしたように頭を上げた。
「あ! 言い忘れるところだったわ。ヒルメス、お帰りなさい」
 笑顔で見送り、出迎えてくれる人がいるという幸福に、ヒルメスは胸が熱くなる。
 アイラはいつも言う。
 「いってらっしゃい」と「お帰りなさい」は絶対に欠かしてはいけないのだと。
 無事に行って帰ってきてほしいという願いを込めて、言うのだと。
 家族の挨拶。他人ばかりの王宮で暮らしていた頃には一度もかけられたことのなかった温かい言葉。
 今は、言い合える相手がいる。それはどれほど、幸福なことだろう。
「ああ――ただいま」
 自分の口から返事を聞こうとして耳を傾けるアイラに、ヒルメスは滅多に見せない屈託ない笑顔を向けて言った。
 それは、意地悪さも打算もないもので、少年の頃に目の前の少女に見せていたものと同じ笑顔であった。


君と在る幸せをかみしめる



【あとがき】
 「玄関先でいちゃいちゃするなよ、二人とも。公衆の迷惑だぜ」な、お話でした(笑)
 すべて口にしなくても互いのことを信頼して分かり合っている二人が書きたかったんです。 そしたら、例のごとく途中からいちゃつき始めました(笑)
 なぜ!? 単に筆者の力量の問題です。はい。
 まあ書いていて楽しかったので、許して下さい。
 内容について少し。
 夢主は挨拶にこだわってて、ヒルメスは恥ずかしがりながらもそれに素直に答えてるといいなと思います。
 家庭的な夢主と、それに感化されて馴染んでるヒルメス。素敵じゃないですか!
 あと、滅多に甘えない夢主が甘えて来たら、とことん甘やかすヒルメス(甘やかし方はR-18?(笑))。最高じゃないですか!
 あと、二人の身長差が大事。ヒルメスは長身ですから、夢主も低いわけではないけど、それなりに差があると嬉しいです。
 以上のポイントを踏まえながら、書いたお話です(笑)。楽しんで頂けたら幸いです。


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