「リンドウの花を君に」IF編
□まだ見ぬ君に幸あれ(前編)
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《もしもヒルメスが銀仮面卿にならなかったら》
・ほろ酔いの夢主が師に悩みを打ち明ける話
・前編は師夫婦がけっこう出てます。ヒルメスの出番は後編
* * *
「もう、むりです……」
数刻までは凛として背筋をのばした姿勢を保っていた華奢な体が、今はぐったりと長椅子に沈み込んでいる。
頬は真っ赤とまではいかないものの、ほんのりと色付き、目もとろんと微睡んでいる。
さすがに飲ませすぎたか、と内心で呟きながら、弟子の向かいで――自身は未だに素面のまま――酒を浴びるようにあおっていた師は、口角をくいっと持ち上げて笑った。
「アイラ、そろそろお前の旦那が迎えに来る頃だ。今日はもう上がれ。愛しの旦那に、たまには素直に甘えるってのも悪くないぞ」
自分の奥さんに甘えられて嫌な気になる夫はいないだろうなー、とかなんとか言いながら、揶揄して喉を鳴らす師をアイラは目を眇めて睨む。
「……知っていて、お酒すすめたのでしょう?」
思考はまだある程度は働くらしいと、半ば現実逃避に自己分析しながら小言を呟いて、長椅子からゆっくりと上体を持ち上げながら、痛むこめかみを指で押して熱っぽい溜息をついた。
「さあな」
「………」
ここ数日、自分が落ち込んでいることに聡明な師は気付いている。その確信を得るのは簡単で、師の前ではつい本音を引き出されてしまうことも毎回のことだった。
「痴話喧嘩以外の悩みなら聞いてやってもいい」
「………別にけんかをしたとか、そう言うことではなくて…」
「ああ」
「えっと、その……わたしが、勝手に、すねていると言いますか……」
「ほう?」
悩んでいることを考えたのか、みるみるうちに暗い表情になっていく弟子の様子に、これは重症だなと気付かれないように息をつく。相変わらず悩み事はひとりで抱え込む癖があるらしい。
師に言わせてみれば、何をそんなに弱気になっているのか、というものだ。弟子を過度に溺愛しているあの男が、アイラのことを厭うはずがないというのに。
「ヒルメス……こども、嫌いなのでしょうか……」
「――は?」
そう来たかと、からかう気持ち半分で弟子の話を聞いていた師は態度を改める。
随分と繊細な問題だ。気持ち半分で聞くような話ではない。
アイラが悩んでいるということは、その手の話が夫との間で出たか、あるいは夫が子供を敬遠する様子を見たかのどちらかだろう。
「こども、いらないのでしょうか……それとも、わたしが話に出したのがわずらわしかったとか。うっとうしかったとか、」
「待て待て待て。お前、それはいくら何でも考えすぎじゃないか」
放っておけばどんどん悪い方に陥っていきそうな弟子の独白に、師は慌てて止めに入る。
「だってヒルメス、あれからずっと無言で、声をかけても、うんとか、すんとかしか言わないんだもの」
呂律もあまり回っておらず、敬語も忘れて憔悴し切っている弟子は目に涙を溜めて、それきり頭を垂れて再び長椅子に沈み込んで沈黙した。
毛布に顔を埋めたまま、ぐすんと鼻をすする音がする。
師は空のまま手に持っていた盃を下ろして、ちらりと扉のほうに視線を向けた。一瞬目を眇めてから再び弟子に視線を戻す。
「お前は子供好きだからな」
ギランで開業している療院にはもちろん子供もたくさん来る。治療を終えた子供や病気の子供の相手は、もっぱらアイラの仕事だ。自分のもとで修行しはじめた頃から今まで、それはずっと変わらない。
否応にも子供好きになるだろうし、アイラの歳を考えれば自身の子供を望む気持ちはごく自然と言える。
弟子夫婦の間で交わされた会話がどんなものか分からないが、察するにアイラのほうから子供がほしいと告げたのだろう。そしてそれに対して、ヒルメスは素直に応じなかった。もしくは、咄嗟に口ごもったということか。
それだけで夫が子供嫌いだとか解釈するのは、いささか早まっているようにも思う。
普段のアイラならもっとも重要な点を見落とすことはないだろうに。
まあ、アイラの性格からして「子供がほしい」の一言を言うのにもかなりの勇気を振り絞ったのだろうから、それを“否定”された――されたと思い込んでいる――のなら、冷静さを失うのも無理はないか。
「お前、旦那に理由を聞いたか? 一人で抱え込んでばっかで、ちゃんと話し合ってないなら、それはお前も悪い」
「りゆう……?」
「そうだ。お前の旦那は一方的にお前の思いを突っぱねて否定するような奴じゃないと俺は思うがな」
後半は扉の外で聞き耳を立てているだろう、弟子の旦那に向けたものだが、アイラはまだそこに夫がいることに気付いていない。
わざと“二人”に聞かせるように話しているのは、どちらにとっても非がある話だからだ。
つまりは、アイラは早とちり、ヒルメスは言葉足らずというわけだ。
「夫婦ってのはどんなことでも互いに共有し、分かち合うべきだ。一度ゆっくり話し合え。それで無碍にされたら、その時はまた俺のとこに泣きついてこい」
その時は俺が一発殴りに行ってやる、と些か物騒なことを本気で考えつつ、師が視線を巡らせると、ほぼ同時に扉が開かれて長身の男が入ってくる。
相変わらず仏頂面で不愛想極まりないが、妻をみる目だけは険のない柔らかな眼差しだ。
師はこの男のそういう所が嫌いじゃない。今も自分には見向きもせずに長椅子にうずくまる妻の元に直行するのだから、実に分かりやすい愛情表現ではないか。
「まあ、どう考えてもアイラの早とちりだろうな」
盃に手酌で酒を注ぎ足しながら、ぽつりと呟くと、ヒルメスは鋭い目で飄々としている男を睨みつけた。
「この俺が無碍にすることなどあり得ぬ」
「だろうな」
それを自分に言われても困るのだが。
しかし、その言葉を一番聞かせてやりたい弟子はいつの間にか寝入ってしまったらしい。体を丸めてすうすうと小さな寝息を立てている。
そのほんのり赤く染まった眦に溜まった涙をぬぐう指先は、とても繊細で、慈愛に満ちていた。
寡黙だからといって、この男に心がないわけではないことを十分に理解している者は、果たしてアイラと師以外に幾人いることか。
損な性格だと思いながらも、一番の理解者に巡りあえて連れ合いになることができて、この男にとってはもっとも幸いなことだと師は思う。
「邪魔をした」
長椅子にかけてあった外套で妻の体を包み、両腕で抱え上げたヒルメスはそれだけ呟くとさっさと扉のほうへと歩き出す。
その背中に師は諭す口調で語りかける。
「お前が悩んでいる理由は何となく察する」
「……」
並々と注いだ酒を一杯、もう一杯とあおりながら、師は返事のない背中に独り言のように続けた。
「厄介な問題だな。生まれってのは一生付きまとう。国を出て、名を捨てて、異国に移り住んでも身のうちに流れる血は消えない。高貴な血を引いていればいるほど、縛られるものも多い」
「それは、“お前たち”のことか」
「――さあな。だが、そんなものは所詮、背負う覚悟を先延ばしにする言い訳にしかならない」
「覚悟なら、すでにある」
「それならいいさ」
ほら、やっぱり弟子の思い込みだったと、師は口端を上げて笑う。
そんな生ぬるい気持ちでこの男はアイラを娶っていないのだ。そのことは誰よりも自分が知っている。
「助けが要りようならいつでも言え。国と王家を相手どるのは俺の得意分野だ」
「ふん、必要ない」
「そうか」
剣を扱う者らしく均衡の取れた背中が今度こそ去っていく。師はその背中を見えなくなるまで見守って、ふと気を緩めた。
今し方、弟子夫婦が出て行った扉から今度はひとりの女性が姿を見せる。
腰まで真っ直ぐに伸ばした豊かな黒髪と、目尻の下がった黒曜石の瞳の女性は、ほんのりと微笑んで扉のそばに立つ。
育ちの良さが伺える凛とした佇まいの中に、彼女らしいおっとりとした柔和さが加わって、その姿は妙齢とは思えないほど若々しい。
最愛の妻に弟子たちには見せない顔で微笑み返した師は、無言で杯を下ろして、その手をそっと伸ばす。
白く繊細な指先が師の差し出した手に重ねられると、師はその手を自分の方に引き寄せた。
「まったく、世話の焼ける弟子夫婦だ」
「あら嘘はいけませんわ。本当は心配で仕方なかったのでしょうに」
「………」
そう的確に言い当てられては返す言葉もない。苦笑を浮かべた師は妻の肩を抱き寄せる。
「初孫、楽しみですわね」
「気が早いと言いたい所だが、そう言っている間だろうな」
「ええ、きっと。――どうか……どうか、二人のもとに生まれてくる子が誰からも愛されて、ずっと幸せに過ごせますように」
遠い昔、自分たちもアイラたちと同じことで同じように苦悩した。だから、二人の気持ちはどちらも痛いほどわかるのだ。
昔を懐かしむように目を細めた師は、妻の言葉に同意する。
「あの二人に望まれて生まれてくるんだ。幸せになれないはずがない」
それは師の心からの願いでもあった。
まだ見ぬ君に幸あれ(前編)
【あとがき】
忙しさに忙殺されていると気付けば前回の更新からかなりの日が経ってしまっておりました。
更新をお待ちくださっていた皆様、本当に申し訳ありません。m(_ _)m
見捨てずにいてくださって、ありがとうございます。
今回のお話は前後編でお届けします。タイトルは「まだ見ぬ君に幸あれ」。
いつものように師(今回は師の奥さんも)が出しゃばっております。オリキャラが苦手な方、申し訳ないです。
師たちの過去話は他のお話を通して読んで頂くと、各話にちらほら仄めかせておりますので、後はご想像にお任せします。
一つだけ。師の奥さんは絹の国の出身で、師が文字通り掻っ攫ってギランに連れてきました。
この二人、何気に詳細設定を用意していて、本編でどこまで使うかはわかりませんが、外伝でも作れそうな勢いです(笑)
さて、ヒルメスと夢主のお二人ですが、喧嘩(?)ではないものの、意見や気持ちのすれ違いはあるだろうな、と思い書き始めました。
後編ではきちんと夫婦で話し合いをする予定です。
どうぞ見守って頂ければ幸いです。
追伸。できるだけ執筆に時間を当てたいと思っているのですが、大学が恐ろしく忙しいです。
更新は気長にお待ち頂けたらと思います。よろしくお願いします。
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皆様からのメッセージは執筆の原動力にさせて頂いております。いつもありがとうございますm(_ _)m