「リンドウの花を君に」IF編
□この幸福がある奇跡
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《ヒルメスが銀仮面卿にならなかったら》
・子供が生まれる少し前の話。
* * *
夫婦そろって寝台に向かい合わせに横になり、ヒルメスがアイラの細い肩を抱いてその亜麻色の髪をゆるりと撫でる。
壁の棚に置かれた燭台に灯された炎が、寄り添う二人の横顔を柔らかく照らし出した。
「ねえ、ヒルメス。貴方は男の子と女の子、どちらだと思う?」
産み月をまもなくに控えたアイラが夫の胸に顔をすり寄せて言う。
その頬はほんのり赤く染まっていて、満ち足りた笑みに彩られている。新たな命の誕生が待ち遠しくてたまらないようだ。
妻につられてヒルメスも目を細め、身をかがめて額に口づけを落とす。
「そうだな……男子ならば共に馬で駆け、剣を教えたいし、女子ならば……」
「女の子なら?」
翡翠色の瞳が興味津々に自身を見上げてくると、ヒルメスは口端を持ち上げて悪戯めいた笑みを返す。
「お前に似た娘なら、存分に可愛がって甘やかしてやりたい」
「まあ、それではわがままな子になってしまうわ?」
「いや? きっとお前に似て、そこらの男を軽くあしらえるくらい利口な娘になるはずだ」
大の男相手に勇ましく啖呵を切るだろうな、とさも面白げに言う夫の様子に、釈然としない顔を向けたアイラは笑いをこらえる頬を軽くつまんで反撃する。
「……それではまるで、私がお転婆みたいに聞こえるわ」
「違ったか?」
「……」
つまんだ頬を少しだけ引っ張れば、ヒルメスは降参だと言わんばかりわざとらしく肩を竦めた。そのまま細い腰を引き寄せてふくらむお腹にそっと触れる。
ヒルメスがお腹に触れるたび、アイラは心から嬉しそうな、幸せそうな顔をする。そのことに気付いたとき、ヒルメスは言い表せないあたたかさを胸に抱いた。
そうしてまだ見ぬ我が子に情を深めていくのだ。
父親という言葉には未だ実感はわかないが、ヒルメスは確実に子への愛しさを感じていた。
「俺は、お転婆だったお前に救われた」
ぽつりとヒルメスは囁くように口にした。
昔暮らした王宮を思い出す。
中庭の片隅にひっそりと佇む木。草木の間から見え隠れする亜麻色の絹糸。王族の自分に、臆することなく向かい合い笑いかける少女。
今でも、それらのすべてを鮮明に思い出すことができる。
「いや、今も救われ続けている……お前がいなければきっと得られなかった尊い命なのだから」
「ヒルメス……」
アイラは夫の頬を愛しげに指でなぞって、顔にかかる黒髪を梳き上げる。
傷痕が晒されてもヒルメスは抵抗しない。それはもはや、ヒルメスにとって何の障害にもならないからだ。
「俺はお前に何を以って報いればいい?」
「……私はもうとっくに報われているわ。私は貴方がそばにいて、愛してくれるだけで幸せだもの。それに貴方は私を母親にしてくれたじゃない」
私は果報者ね、とアイラは言う。それから、実は、と少しだけ躊躇しながら続けた。
「実は貴方に再会する前、ギランに居たときに一度だけ自分の結婚を考えたことがあったの」
初耳の話にヒルメスは驚く。
――アイラにそう思わせる他の男がいたということか。結婚を申し込まれたことがあるということか。いや、そんな話があってもおかしくないのだ。アイラは理知的で優しく、誰より美しい。そんな彼女が独り身であったら、俺ならば迷わず惚れる……。
そう考えると途端に苦い気持ちになって、無言で妻を固く抱きしめた。
加減はしたつもりだったがお腹が苦しかったのか、ぽんぽんと肩口を叩かれて、しぶしぶ隙間を開ける。
代わりに白い手のひらを取って自身の唇に押し当てる。
手放したくない。他の男になどくれてやるものかという思いが強く心を揺さぶった。
「そんな難しい顔をしないで、ヒルメス。私は貴方を選んだのだから」
「……誰だ」
「え?」
「相手は誰だ。言え。お前の幼馴染というバフリーズの甥か? ダイラムの旧領主の息子か? それともエルアザールの者か?」
「もしかしてヒルメス、妬いてくれてる?」
「……だったら悪いか」
ぱちり、と翡翠色の目を瞬かせて、アイラは口を半開きにさせている。
憮然とした態度の夫の耳が少しばかり赤くなっていることに気付くと、アイラは思わず破顔した。
「ふふ、ごめんなさい。言い方が悪かったわね。相手は師の息子さんよ。彼が幼い頃、よく遊び相手をしていたのだけれど、その頃はよく“大きくなったらアイラお姉ちゃんと結婚する”って言ってくれてたの。もちろん、彼が小さな頃の話だから今はもう忘れてしまっているだろうけど」
師の一人息子は、今は立派にエルアザールの一員として弱者を救うために尽力している。国内外を飛び回っているから、そのうち似合いの娘でも見つけてくるはずだと、アイラは楽しげに語った。
「もちろん私も幼子の言うことを鵜呑みにしたわけではないけど、その時に、私はこの先どうすればいいのかなって、少し考えてね」
ただただ一生懸命に療師を目指していた頃だ。ふと立ち止まって未来を考えたとき、そこに愛しい人の姿がないことを寂しいと感じてしまったことがあった。
「でも、結婚しようと思ったことはなかったの。貴方以外には考えられなかったから」
何でもないことのように話すアイラに、ヒルメスは衝撃を受けた。
その頃はまだ、自分は死んだものだと認識していたはずだ。それなのにアイラは自身の幸せを得ようとしていなかったと言う。
「もし俺が、お前のもとに帰らなかったら、」
「うーん、その時はずっと一人でいたかな」
だって、とアイラは続ける。
「――その頃にはもう、貴方のことをどうしようもないくらい愛していたから。幼い頃は憧れで、その後は面影を慕っていた……けれど、療師としていろんな人と出会って別れがある中で、私にはやっぱり貴方しかいないんだって気付いたの」
「お前は、そんなに前から、俺のことを……」
「呆れてる? でも、こうしてまた出会えたのだから、愛したことは報われたわね」
それほどまでに深く愛されていたのだと、改めて思い知らされる。
アイラと共に在れる幸福を、命を授かる奇跡を、ヒルメスは噛み締める。
「……お前が、他の誰かのものにならなくてよかった」
歓喜のあまり要領を得ない返事を返す。
気持ちを落ち着かせようとひとつ深く息を吐いて、ヒルメスはいくつもの巡り合わせで妻になったアイラに向き合った。
「国や王ではなく、神でもなく、他ならぬアイラに誓おう――生涯をかけて、お前と生まれてくる子を愛することを」
ヒルメスは誓いの証として口づけをひとつ、想いを込めて捧げた。
寄り添う二人の間に待望の娘が生まれるのは、それからまもなくのことである。
この幸福がある奇跡
【あとがき】
前々から構想してて、ずっと書きたいと思っていたお話がやっと書けました。
夢主だって女なんです、自分の未来のことを考えなかったわけじゃないというお話。
でも夢主は結局、自分が幸せになれるのはヒルメスの隣しかないって知って、ずっと彼だけを想ってきたんです。
余談ですが、師の息子さんは夢主が初恋の女性で、今もひそかに想い続けていてヒルメスのことを恋敵だと思ってます。
たぶん、幼い頃に告白したことも覚えていて、夢主が自分のことを弟のようにしか思ってくれないことにショックを受けつつ、弟ポジションに甘んじているという感じでしょうか(笑)
息子くん、初恋を吹っ切れるといいですね〜。いや〜絶対ヒルメスには勝てないですからね(笑)
例のごとく、プロットなしにお話を書いていたら、ヒルメスが何だか嫉妬に狂っていました(笑)
まあこれはこれで俺得話かもしれません。
皆様にも気に入って頂けると嬉しいです。