「リンドウの花を君に」IF編

□この幸福を手放すことなど
1ページ/1ページ

《ヒルメスが銀仮面卿にならなかったら》
・いつもより少し長め。ちょっとだけシリアス注意。最後はやっぱり甘いです


* * *


 海に面した街の大通りは行商が行き交い、物売りが客引きの声をひっきりなしに上げる。
 豊かなパルスの民の活気に満ちたギランの街を薬箱を抱えて歩いていると、昔を思い出して懐かしい。
 修行の身の時、師の遣いで薬を抱えて街中を歩き回った。やがてその仕事はアイラよりも年少の弟子たちに移っていったため、こうして街をひとりで歩くのは久しぶりだった。
 今日はその弟子たちが忙しいそうだったため、手を空いていたアイラが一人で街へと出たのだ。
 街をひとりで歩くのは久しぶりとは言ったが、家庭を持った今は、食材や日用の物を見繕いに来ることはしょっちゅうだ。その時は、ヒルメスと連れ合って歩くことが多い。
 人込みが苦手だろうヒルメスに、家で待っていてはと声をかけたこともあったが、彼曰く、「一人で歩かせるのは気が気じゃない」らしい。
 ギランが第二の故郷でもある自分がいまさら道に迷うわけでもないし、買い物くらい一人でも問題ないと首を傾げて反論すると、ヒルメスは苦い笑みを浮かべて言い募った。
「そう言うことを言っているのではないのだがな」
 いまいち意図をつかめないアイラに、ヒルメスはそれ以上何も語らず、それ以来時間が合うかぎり二人そろって街を歩くのが習慣となっている。
 アイラが街を一人で歩くことに難色を示すのはヒルメスだけではない。昔はちっともそんなそぶりを見せなかった師も、近頃は口うるさく注意しろと言うのだ。
 益々混乱する一方である。そんなわけでアイラがこうして街を歩くのは、とても久しぶりのことなのだった。
「あとはパン屋の奥さんに腰痛の薬を届けに行って……」
 用意した薬を頭の中で反芻して指折り数えながら、アイラは行き慣れた通りを歩く。
 あちらこちらからかかる物売りの声を時折断って、何度か道を曲がって大通りから少しずれた中道へと入る。
 表の大通りとは違い、裏道はさすがに閑散としている。ここ辺りは狭い路地と密集した住居に遮られて日の光も通りにくい。
 そう言えば最近、師が心配げに言っていた。
「近頃、異国で身を崩したやから共が街に入り込んでいるらしい。アイラ、くれぐれも気を付けろよ。お前に何かあったら夫殿に顔向けできんからな」
 さしものアイラも、少しばかりの不気味さを感じて身震いすると、早々に用事を済まそうと足を速めた。


 無事に用事を済ませ、大通りへ戻ろうと引き返したアイラは、ふいに、何人かが言い争う声を聞いてびくりと肩を震わせた。
 恐々と周囲を伺うが、声は聞こえても人の姿は見えない。耳をすましてみれば、何人かの男たちが異国の言葉で何かを罵っているような声が聞こえた。
 まずいと思ったときには、すでに手遅れだ。どこからともなく現れた長身の男たちの姿に、背中に冷たいものが流れる。
 胸の前で両手を合わせて、息を飲むアイラの姿を見つけた一人の男が低い声で卑下して笑う。
「“おい、こんなところに女がいるぞ”」
 異国の言葉が理解できずに眉を顰める。響きはパルスの北東境に接するチュルクのもののようだ。
「“珍しい。中々の上物のようだな”」
「“パルスの女は、気は強いが嫋やかで美しいと聞く”」
 じりじりと距離を詰めて迫ってくる数人の男たちに、アイラは護身用に腰帯にひそませていた短剣に触れる。
「来ないで、」
 パルス語は大陸の共通語だ。チュルクの言葉は知らなくても、男たちに通じる可能性はある。案の定、ひとりの男が言葉を解したらしい。勿体ぶるように足を止めた。
「そんなに怯えずとも、いいぞ?」
 片言のパルス語は労わるというよりもからかう響きを持って投げかけられる。
「触らないで!」
 声を上げると同時に短剣を振り上げて一瞬の隙をつくと、男たちの間を縫って通りを走り出す。
 追いかけてくる男たちを振り切りながらがむしゃらに走っても、男女の差は歴然としている。
 早く大通りに、と思った途端に追いつかれて背中から壁に押さえつけられた。
「っ、――ヒルメス…!」
 咄嗟にそう叫んで、ぎゅっと目を瞑る。
 突然、断末魔に似た気味の悪い声が響くと同時に、アイラを押さえつけていた男の手が退けられる。
 はっとして振り向いたアイラの視界は一瞬で黒く塗り替えられた。
 有無を言わさず胸板に押さえつけられる。恐怖に震えるアイラの血の気を無くした頬に触れたのは、剣を扱うために固く大きい、愛しい人の手のひらだった。
 肌を通して伝わるぬくもりが徐々に体の強ばりを解いていく。
「もう大丈夫だ」
 耳元で囁かれて、アイラは今度こそ深く息を吐き出した。
「ひる、めす……」
 乾いた口から出した言葉は情けないほどにかすれていたが、しっかりと聞き取ったヒルメスは妻を抱いた片腕に力を込めて応じる。
「目をつむっていろ。……すぐに終わらせる」
 ぎらりと鋭い隻眼の眼光が、狼藉を働いた男たちを残らず射抜く。
 普段妻に向ける甘やかさは欠片もなく、人を裁く者の冷酷さのみを写した瞳に一切の容赦はない。
 片腕にアイラを抱いたままのヒルメスが長剣を引き抜くと、ひいと情けない悲鳴を上げた一人がわれ先にと逃げ出した。一拍置いて、他の男たちもそれに続く。
 逃亡を図った男たちを遮ったのは、どこからともなく現れた鍛え上げられた屈強な体躯の男たちだ。
 その中の一人が手にした細長い棍を肩に引っ掛けて嘲笑した。
「娘に手を出しておいて、そんなにたやすく逃げられると思うなよ?」
 その声が知っている人に似ている気がして、肩口から顔を上げようとしたアイラの視界を遮って、腰に手を回したヒルメスは黙然と歩き出す。
 もはや男たちには見向きもしない。
「あの方たちを放っておいても……?」
「構わん。あちらでどうにかするだろう」
 素っ気ない返事と共にわずかな苛立ちが見え隠れしている。
 困惑したふうの妻を連れて、男たちの姿も声も完全に見聞きできないところまで歩いたヒルメスは、おもむろに足を止めるとアイラを見下ろした。
「だから言っただろう――! 俺が間に合わねばどうするつもりだったのだ!!」
 初めて怒鳴られたことに驚く間もなく、痛いほど強い力で抱きすくめられる。
 優しさの欠片もない感情が先立つ行動はアイラの知るヒルメスには珍しい。
「お前はいつも――っ、……案じるこちらの身にもなれ。お前に何かあれば俺は――」
 肩越しに聞こえる声がわずかに震えている。それに気づき目を見張って、体を放そうと身じろぐと、一層強い力で抱き寄せられた。
 アイラは息をするのもやっとなその痛みに顔をしかめながらも、それ以上の罪悪感に胸を締め付けられる。
 じわりと意図せずに涙が溢れそうになるのを、唇を噛み締めて押し殺す。
「ごめん、なさい」
 恐る恐る広い背中に手を回すと、自分を拘束する腕がわずかに緩められる。それでも胸の痛みは増すばかりで、息が詰まった。
 喘ぐように息をして嗚咽を堪えていると、ひとつ深く息を吐き出したヒルメスが拘束を解いて、泣き濡れた白い頬を手で包み込む。
 居た堪れなさに俯いたアイラの顎を持ち上げて視線を合わせる。
「……お前に何かあれば、俺はまたあの頃の己に戻らねばならぬのだ」
 闇に閉ざされ、もがき苦しみ、生きていることに絶望した日々に。
 やっと手に入れた光を失うことが何よりも恐ろしい。
 今この時を奪われることが、何よりも。
「ごめんなさい、ヒルメス。ごめんなさい……」
 言わなければならないことは他にもたくさんあるはずなのに、胸がいっぱいでただそれだけを繰り返した。
 呆れられるかもしれない、見捨てられるかもしれない。何よりも、ヒルメスにいらないと言われることが怖い。
 自分の浅はかさで彼を苦しめている。
 自分の行動がどれだけ彼を傷つけたことだろう。どれだけ、彼につらい過去を思い出させてしまったことだろう。
 彼に守られていたことに気付かなかったその結果がこれでは、見放されても仕方ない。
 アイラはヒルメスの青白い顔を見た。
 自分を探しまわってくれたのだろう、こめかみに汗がにじんでいる。血色を無くした唇が痛々しい。
 ヒルメスが来てくれなかったらどうなっていたかと想像すると体がすくんだ。
「……もう、よい」
 もういらないと言われたのだと思い、アイラが顔をゆがめると、ヒルメスがわずかに目尻を細める。
「そうではない。お前が無事だったのだから、もう構わん」
「ごめん、なさ、」
「もう謝るな……怖かっただろう。すまない。責めるより先に慰めるべきだったな」
 いつもの、ヒルメスだ。あやすように髪を梳く手はどこまでも優しく、肩を抱く腕は労わりがにじんでいる。
 そのあたたかさにまた涙があふれた。
「……本当にごめんなさい――助けに来てくれて、ありがとう」
 甘えてばかりだと自分で分かっていながら、差し出された手に縋り付いてしまう。
 頼ってばかりで情けないと思いつつも、自分を守ってくれる腕の中にいたいと願う。
「怪我は?」
 首を横に振り、それからどこか遠慮がちに抱き付いてくる妻に、ヒルメスは苦笑して安堵の息をつく。
「ならばよい」
 自分に言い聞かせるようにつぶやいたヒルメスは、小さな体をそっと自分の外套の中に引き入れた。
 そろそろ日が暮れる。気温が下がる前に帰るべきだ。
 本当は抱き上げて行きたいがそれだと人目につく。
 どうするべきかと思案していた所を見計らったように、馬を引いた男が遠くから現れる。艶やかな栗毛の立派な軍馬はヒルメスの愛馬だ。
 我が物顔でそれを引いてきた男に、ヒルメスは少しばかり嫌そうにした。
 少し離れた所で馬を止めた男は口を開こうとしたヒルメスを、指を立てて留める。
 一瞬だけヒルメスの腕の中に案じる視線を向けたその男は、しかしすぐに馬を置いて立ち去って行った。
 去り際に自分に向かって意味ありげに笑ったことは見なかったことにしようと、ヒルメスはその背中を見送って嘆息した。
「帰るぞ、アイラ」
 今度こそ手放さないようにしかと腕に抱き上げて馬に乗せ、ヒルメスもその後ろに跨る。
 大通りに出る前にと、ヒルメスは自分に寄りかかる妻の額に口付けた。
 片時も離れたくないと身を寄せたのは、果たしてどちらだったのだろうか。


この幸福を手放すことなど



【あとがき】
 2016年、最初のお話を書きました。
 思ったよりも更新に時間がかかってしまってすみません。
 寝正月のはずが、明けてからは多忙でした(笑)
 正月明けて一本目はいつもと少し血色の違うお話になりました。
 IF編「幸」の二人はいっつも甘いお話なので、トラブルものを考えようと思い立った結果です(笑)
 とはいえ、行きつくところは同じなのですが……。
 あれもこれも書きたいと詰め込んでいるといつもより長めのお話になっていましたが、楽しんで読んで頂ければ幸いです。

 今年もマイペースに更新していきます!
 どうぞよろしくお願いします!


 追伸(ネタバレ注意)
 新キャラ!?と思った方、すみません。新キャラじゃないです。
 ヒルメスが拒絶(?)しているところから、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、飄々としているあの方が本性を現しました(笑)
 でも夢主は気付いてません(苦笑)
 あの方は元々頭よりも手が出るタイプです。普段は本性を隠してます。
 昔は盗んだバイクで走り出していたタイプです(このネタ、分からない世代の方もいらっしゃるかも(笑))
 あの方の今後の活躍に乞うご期待下さいm(_ _)m


[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ