「リンドウの花を君に」IF編

□この幸いを知ればこそ(前編)
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《ヒルメスが銀仮面卿にならなかったら》
・アルスラーン一行がギランに来訪する話
・さっそく裏注意


* * *


 港街ギランの活気に溢れる大路に背を向け、高台に通じる坂道を疾駆する馬が一頭。
 よく手入れされた艶やかな栗毛が海風になびいて揺れている。
 商人や町人が乗るには上等すぎるパルスの逞しい軍馬は、勾配のきつい道も速度を緩めることなく駆け抜ける。
 乗り手もやはり、只人にはありえない、内からにじみ出る高貴さを身にまとっている。
 襟裾の長いその硬質な黒髪が日の光に反射して、きらきらと輝いた。
 さらには、髪の下に見え隠れする革の眼帯と腰に差した長剣も相まって、冴え冴えとしたその容貌が余計に引き立てられているのだ。
 見る者がみれば、一目でわかる。その存在だけで人を圧倒する気高さと強かさを秘める彼の人は、かつてこの国の王子だった。
 やがて運命に翻弄され、その地位を追われてなお、生まれ持った素質は微塵も損なわれていない。
 ただひとつ付け加えるならば、彼を束縛していた身分が取り払われた今、感情豊かに人と交わるようになったとも言える。
 外の世界を知り、他人を知り、そうして彼はようやく胸の虚無を埋めるだけのものを手にした。
 果たしてその愛は、彼にとってよい変化をもたらした。だからこそ、今こうして家路を急ぐのだ。
 一心に馬を駆るその横顔は、間近に広がる海のようにどこまでも広がり澄み渡っていた。

 パルスが誇る大陸航路を東西に横断する大商隊の護衛として、一週間ばかりギランを離れていたヒルメスは、出立前、心細そうな様子を笑顔の下に隠して自分を見送った妻のことを思いながら家路を急いでいた。
 今はもう一人、自分の帰りを待つ赤子もいる。柔らかく、あたたかい小さな手のひらを思い出して、ヒルメスは口元に薄く笑みをのせる。
 アイラによく似た瞳で花が咲いたような笑顔を向けられると、不思議とこちらまで頬が緩むのだから不思議なものだ。
 そして赤子を抱くアイラの穏やかな眼差しも、ヒルメスに無二の幸福をもたらした。
 妻と我が子を想うとき、ヒルメスは決まって何ものにも代えがたい尊さを抱く。
 それは億の宝石にも、パルスの玉座にも勝って余りあるのだ。
 つい最近までその価値を知らなかったのだから、運命とは実に奇なものである。

 坂道を一息に上りきり、森に囲まれた高台の一角に静かに佇む我が家にたどり着くと、ヒルメスはほっとひとつ息をついた。
 帰路を急ぐ主人の思いに応えた愛馬を労いながら厩につなぎ、下働きの者に後の世話を任せると、外套を取りながら真っ先に玄関の扉を目指す。
「――ヒルメス!」
 蹄の音を聞き止めたのか、ヒルメスが取っ手を取る前に、内側から開かれた扉から亜麻色の髪が流れるように飛び出してきた。
 驚く間もなく、飛び出してきた勢いのまま抱き付かれる。亜麻色の髪から甘く爽やかなジャスミンの香りが匂い、ヒルメスの鼻腔を優しくくすぐった。
 すらりとした軽い体をふわりと抱き止めたヒルメスは、離れていた間分を補うようにしっかりと抱きしめ返す。
 その腕の中で顔を上げたアイラが、夫の頬に指先を伸ばした。意図を察したヒルメスは膝を折って身をかがめると、そっと妻の唇を奪う。
 数度重ね合わせて、互いの額を寄せ合った。照れたようにはにかむ妻が言う。
「お帰りなさい、ヒルメス」
「ああ、ただいま……」
 妻の肩を抱いて屋内に足を踏み入れる。
「リラは?」
 リラとは昨年の今頃に生まれた娘の名前である。春に咲く薄紫の花の名から名付けられた。
 母親によく似た愛らしい娘は、父親であるヒルメスによく懐いていた。
 アイラがふわりと微笑む。
「お昼寝中よ。さっきまで二人で貴方を待っていたのだけど、待ちきれなくて眠ってしまったみたい」
「そうか……」
 ヒルメスの目が少しばかり残念そうに子供部屋に向けられるのを、アイラが愛おしそうに見つめる。
 妻の抱擁と同じくらい、娘の笑顔に出迎えられるのも楽しみにしていたが、寝ているのなら仕方ない。
「あの子が起きてると私はあの子に貴方を取られてしまうもの。ちょっとだけ得をした気分なの」
「珍しいな。お前がそういうことを言うのは」
 それでも嫌な気分にはならない。むしろ照れくささの中にも心地よく感じて目を細めた。
「留守の間、何か変わったことは?」
「いいえ、何もなかった――あ、」
 言葉の途中で何かを思い出したように、アイラの足が止まる。それから少し戸惑うように視線を彷徨わせた。
 ヒルメスは怪訝に思いながらも先を促す。
「えっと、王都から手紙が届いて……」
「王都から? バフマンか?」
「ええ」
 アイラの祖父バフマンと、ヒルメスは幼少期からの付き合いだ。
 ヒルメスに剣を教えたパルスの老将。老いてなお卓越した武を誇り、万騎長の座につくバフマンは、両親を亡くして孤児となったアイラを引き取り育てた。
 アイラがエルアザール療師団を訪ねてギランへと旅立ったときは、半ば勘当する形で送り出したと言うが、その後に築き直した関係は良好らしい。
 武骨なバフマンは筆まめではないが、離れて暮らしているアイラを案じては季節の折に手紙をしたためてくるのだった。
 けれどもアイラの様子を察するに、今回届いた手紙は季節の便りという訳ではないらしい。
 祖父からの手紙に対し、言いにくそうに口ごもる理由が分からず、ヒルメスは首を傾げた。
「実は……」
 アイラの話に耳を傾けるうち、次第にヒルメスは渋面をつくった。
 曰く、こうである。「王太子アルスラーンがお忍びでギランに来訪するらしい」、と。
「……ヒルメス?」
 話を終えても返事をしないヒルメスの顔色を伺うように、アイラがおずおずと問う。
 何をそんなに懸念しているのか、気にしすぎだと伝えるために、ヒルメスは細い眉根にきゅっと寄せられた皺に指を押し付けて薄く笑った。
「そうか」
「……それだけ?」
「別に今更どうと思うことはない。強いて言えば、来るのは王太子だけか?」
「そうだと思う。伴につくのはおそらくダリューンとナルサスだろうっておじい様の手紙には書いていたけれど」
「それならばさして気にする必要もなかろう」
 アンドラゴラスではないのだから。とヒルメスは心の中で続けた。
 ヒルメスの嫌悪の対象はあくまでも彼の王だ。過去に受けたその所業に対しての怒りは収まっていない。
 何より、先王を暗殺した疑惑は消えてはいないのだから。
 一方で、ヒルメスの関心はさほど王太子へと向けられているわけではなかった。会ったこともない凡庸な王太子にまで敵意を向けずともいい。
 よって、彼が忍びでギランを訪れても特に関係ないとの結論に至った。
 そうして考え込んでいる間にも、アイラの手を借りて着替えを済ませていく。
 アイラがいつも身支度を手伝いたいと言うから好きにさせているが、腰の長剣だけは彼女に触らせることなく、自身で外して早々にしまい込んだ。
 自分の背後に回り、窮屈な眼帯の革紐を解いていくアイラの手が少しばかりくすぐったい。
 商人たちと行動していた間中、外されることのなかったそれは、ひやりとした外気に晒された瞬間わずかに引きつったような痛みをもたらした。
 気にするほどの痛みでもなかったが、眉をひそめたところを目ざといアイラにすぐに見つかった。
「……ずっと外さずにいたの? 薬は?」
 わずかに非難がにじんだ声音に、日に一度は外して薬を塗るように言われていたことを思い出す。
 普段はアイラがするそれを、この一週間は確かに怠っていた。
 促されるまま素直に厚い絨毯が敷かれた床に腰を下ろすと、目の前に両膝をついたアイラに顔を覗き込まれる。
 透き通るように淡い翡翠色の瞳が近づき、白い首筋や胸元が目に入ると、こんな時だと言うのに、ヒルメスはあらぬ衝動に駆られそうになった。
 しばらく触れられていなかったのだから、ヒルメスにしてみれば当然の欲求だ。
 けれどもアイラはそうしたことに非常にうとい。うといばかりか、むしろ無自覚に煽り立ててくるから厄介なのだ。
 顔の傷あとを触診されている間、暇を持て余したヒルメスは眼前にある細い腰を悪戯に掴んでみた。
「――ひゃ、っ!」
 思いがけず色よい反応が返ってきて、唇が弧を描く。
 非難がましい目を向けられても、熱情は募れども罪悪感は微塵も抱かない。
 そのまま背筋をなぞるように指先を布地に滑らせると、涙目になったアイラが肩を震わせて膝を折った。落ちた腰を腕力だけで引き寄せる。
 散々煽られていた魅惑的な白い首筋に鼻筋を埋め、吐息をかけるようにゆるゆると愛撫する。
 頭上から鼻に抜けるようなか細い声が意味のない停止を促している。もちろんヒルメスがそれを聞き入れることはない。
「相変わらずどこもかしこも弱いのだな」
「貴方がいきなりすぎるのっ、も、ぁ!」
 耳朶を甘噛みすると見栄を張っていられなくなったのか、縋り付くように肩に置かれた手がそこの布地を掴む。
「ふ、ぁ……―――んっ、」
 玄関先で交わし合った砂糖菓子のような優しい口づけではない。丸ごとすべてを奪うような、貪欲なそれをヒルメスは幾度も強いる。
「こら……だめ、ひる、ぁ――…ぁ、っ!」
 ヒルメスの手が腰帯をぐいと引き抜き、早急に上着の袷を引き下ろそうとする。
 そうして肩口が露わになると同時に背中から押し倒されて仰向けになった。
 絨毯の短くて固い毛が無防備に晒された地肌をちくちくと刺す。痛くはないが、むずかゆさを感じて身をすくませる。
「アイラ」
 うわごとのように名を呼ばれると、どきりとして体が熱くなる。じわりじわりと最奥に熱が集まっていく。
 圧し掛かってきたヒルメスを見上げると、彼も同じ気持ちなのか、情欲を湛えた瞳を色濃くさせていて、言葉を交わさなくても望む気持ちが痛いほど伝わってきた。
「ヒルメス……」
 顔の横に立てられた逞しい腕に指先を這わせる。瞬きする一瞬すら惜しんで見つめ合い、どちらも視線をそらさない。
 ヒルメスは片腕で自重を支え、もう一方の手でほんのりと色付いた頬をくすぐるようになぞった。
 アイラは小さく微笑むとゆっくりと瞼を下ろす。
 それが合図だった。
 乱暴に取り払われた衣服の上で、二人は離れていた時間を取り戻そうとするかのように深く求め合う。
 衣の中で白い肢体を波打たせて悦ぶアイラをみて、ヒルメスも幾度も極めさせられる。
 最初のうち、未だ高い日の光を気にして体を隠そうと恥じらっていたアイラも、久々に与えられる息もできないほどの快感の前に早々と屈して、求められるままに全てを甘受した。
 理性を失ったアイラの嬌声が室内に響き始めると、ヒルメスはわずかに扉の外を気にするそぶりを見せ、何事かを思案すると、ひっきりなしに甘く啼く唇を己のそれで塞ぐ。
 その息苦しさがさらなる絶頂を呼び込み、気が狂いそうになるほど達したアイラがふるふると首を振り降参を示してからも、ヒルメスは蕩けきって濡れそぼった内にしつこく居座った。そうして何度も熱を注ぎ込んだ。
 流石に度が過ぎていることを自覚したヒルメスが止めようと思っても、奥を突けばアイラはよがり、自身をきゅうと締め付ける。そうやって好ましい反応が返ってくれば、止めようにも止められない。
 少女めいた無垢な愛らしさの中にも、艶めいた大人の色をまとわせて誘ってくるアイラが悪い。と、ヒルメスは口に出さずに思った。
「や、ぁ――、……っ、ひ、ぁあ!」
 やがてずっと塞いでいた唇を解放したヒルメスが前触れもなく上体を起こすと、偶然良い場所に当たったのか、アイラが再び絶頂に達する。
 押し寄せる波に耐えるように硬直した体の、仰け反った背中と絨毯の間に手を滑り込ませて持ち上げる。
 膝の上に抱え上げると自然と深々と挿入する形になり、きつく締まった内壁にヒルメスもまた息を詰めた。
 ずっと絨毯に擦れていた背中が赤くなっているのに気づき、ヒルメスはわずかに眉を寄せた。
 数歩先にある寝台に移動するのも面倒に思うほど、行為に集中していたらしい。自身の余裕のなさを自嘲して、ヒルメスは苦く笑う。
「アイラ、首に手を回せ」
「ん、っ、……?」
 もうあまり思考が回っていなさそうな妻の痴態を愛しげに見つつ、力が入っていない様子の細腕を形ばかりに首へ回させると、ヒルメスはおもむろに立ち上がった。
「ひ、ぁ、やっ――!! ――っ、――っ!」
 不安定に揺れる体と、つながったままのそこを襲う衝撃に、声も出ないアイラは目の前の夫に固くしがみついた。床までの結構な高さが怖い。
 ヒルメスは、怯えるアイラの瞼に優しく口づけながら寝台へと移動する。
 アイラ一人の重さなど大したものではない。まして落とすはずもない。
 けれどもそれは口に出さず、必死にしがみついてくる健気な妻に笑みをこぼした。
 短い距離を惜しみながらゆっくり歩き、真新しい皺ひとつない敷布の上に縺れるように倒れ込む。
 一度抜いてから、へたり込む体をひっくり返すと、無意識に逃げようとする腰を縫いとめたヒルメスは、にわかに眼光を強めて口端を持ち上げた。
「逃げるな、アイラ。素直でいるなら、蕩けるほどに甘く愛撫して、お前が望むように優しく導いてやろう」
 潤んだ瞳でおずおずと背後を振り返ったアイラが、きゅっと唇を噛み締めて小さく頷く。
 その幼気な姿を存分に堪能してから、ヒルメスはもう一度ぬかるみに熱を押し当てた。
枕に顔をうずめたアイラがこくりと喉を鳴らす。
「ぁ、……ヒルメス、っ――!」
 くぐもった声で小さく名を呼ばれて、無意識に体が沸騰する。冷めやらぬ熱が胸を焦がし、身を焼く。
 顔に落ちてくる髪を億劫そうに乱暴に掻き上げたヒルメスは、次の瞬間、押し付けた自身を一息に潜り込ませた。
 軋む寝台に差し込んでいた西日はついに沈もうとしており、もう間もなくの夜の訪れを予感させていた。

 この世界にただ一人。この生涯にただ一度。
 この幸いを知ればこそ、どうして手放すことができようか。


この幸いを知ればこそ



※長文すぎて1ページに納まりきらなかったので、【あとがき】は次のページに書きました。よろしければそちらもどうぞ。
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