「リンドウの花を君に」短編

□雛鳥の巣立ち
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《ギランから王都へ戻るために師と別れる話》


* * *


 初めて好きになった人を失ってから、もう十年が経った。
 記憶の中の彼の姿は幼いまま、自分だけが年を重ねて今年で十八歳を迎えようとしている。
 過ぎていく時間の中で当たり前のように体は成長し、それと同時に心も深くなっていく。様々なことを経験するうちに、幼心に恋慕った彼への想いはいつからかより強いものへと変わろうとしていた。
 慕うというにはあまりあるほどの、深さ。
 恋というにはあまりあるほどの、熱さ。
 けれども日々胸の内で強くなっていくその感情の名を、私はまだ知らない。

 大海に面したギランは交易と情報が盛んに行き交うパルス最大の港町である。町は昼夜問わず人の活気に溢れ、古今東西の多種多様な品物が露店に並ぶ。王都エクバターナの繁栄にも引けを取らないのが、この、海の交易の中継地ギランであった。
 十年前に祖父と別れ王都からこのギランへと移り住んだアイラは今、療師の師匠となる人物の自宅に仮住まいさせてもらっていた。
 二階の最奥、海に面した部屋が今のアイラの自室である。といっても師に付いて各地を巡っていることの方が多いから留守にしがちだった。
 先だって絹の国から船に乗り、二ヶ月ぶりの自室に戻ったのも昨夜の夜遅くになってからのことである。
 窓にかけられた薄布の隙間から日の光を感じて、アイラはゆっくりとベッドから身を起こした。
 長旅の疲れを癒すのに充分な休息を取れたとは言い難いが、惰眠を貪っている時間はない。療師はとても重労働なのだ。それこそ食事の時間も惜しんで働く。自分以上に多忙な師は、すでにギランの薬院を開いているだろう。留守にしていた時間が長ければ長いほどギランに戻ってからが大変だった。
 師が開いている薬院には、数十名の療師が在籍している。その誰もが師から様々な医術を学び一流と呼べるだけの技能を持ち、日々治療や薬の研究に勤しんでいた。彼らは療師の中の療師だとアイラは思っている。
 「エルアザール療師団」。人々はギランの町を拠点とし、師を中心に結束する療師団をそう呼ぶ。アイラはその一員として精進していることを誇りにし、師や先輩療師たちを心から尊敬しているのだ。
 アイラが手早く身支度を整えて階段を下りていくと、間合いよく、師不在の宅を切り盛りする師の夫人と玄関で鉢合わせる。
 夫人は見事な黒髪をもつ清楚な美人で、とても一児の母には見えないほどに若々しい。出身は絹の国らしく、アイラはそれ以上詳しく知らないが、結婚するときに彼の国で一悶着あり、結局は師が強引にかっさらってきたらしい。とはいえ夫婦仲はすこぶる良好で、不穏な様子は微塵も感じられなかった。
「おはよう、アイラ。貴女に手紙が届いているわ」
 こちらの姿に気づいた夫人が、おっとりと微笑んで片手を差し出す。その手に載せられた真新しい手紙を、挨拶と礼を言いながら受け取って宛先に目を向けたアイラは思わず声を漏らした。
「あ、」
「どうしたの?」
「ああいえ、王都の祖父からみたいです。珍しい・・・普段はあまり手紙を書かない人なのに」
「まあ、お祖父様から? 何かあったのかしらね。早く読んでお返事を書かないと。きっと遠方の孫娘を心配していらっしゃるわ」
「はい、そうします」
 これから朝市に行くという夫人を見送って、アイラはもう一度手元へ視線を落とした。本当に珍しいことだとアイラは思った。祖父は自分がギランに戻ることに反対していたし、筆まめな人でもないから、アイラ自身が息災の手紙を送らないかぎり音沙汰がないことが大半だった。
 少しだけ緊張しながら、その場で手紙を開封する。親しみのこもった祖父の文字に知らずうちに頬を緩ませながら、文脈を目で追っていくうちにアイラは唖然と息を呑んだ。
「王都へ戻ってこいって・・・」
 手紙は王都への帰還を促すものだった。一時帰宅というわけではない。ギランを離れ王都で暮らさないかという話だ。
 もう一つ、手紙には重要なことが書かれていた。
「王宮専属の療師に、私が?」
 前任の王宮直属療師が老齢で退職するから、その後任として王宮に勤めないか。
 大陸随一と名高い名療師の弟子として十年間修行したアイラが、療師として確かな腕を持っていると風の噂で聞いた王宮の療師たちが祖父に是非にと頼み込んできたらしい。
「急にそんなことを言われても・・・」
 そう口にしつつも、アイラは近々この手の手紙が来るだろうことを予想していた。実際何も急なことではない。アイラは今年で十八歳を迎える。そして、祖父バフマンには身内が自分しか残されていない。手紙にははっきりと明言していないが家を継がせるにはそろそろ家庭を持たさなければならないと、祖父は思っていることだろう。
 パルスの女性の結婚適齢期的にも、祖父が孫娘に王都帰還を促すのは自然の流れだと言えた。むしろ、今まで言い出されなかったことが奇跡だったのだ。
「今まで私の親不孝を容認してくれていたのだもの。そろそろ潮時かも知れないわね・・・」
 アイラにとっても祖父バフマンは、残された唯一の家族なのだ。祖父のことを尊敬しているし、大切にしたいとも思っている。祖父がまだまだ現役で健康体だから、それに甘えてきたのだ。
 だがそれもいつまでもという訳にはいかない。
「師に話さないと。でも絶対渋面を作られるわ」
 師の王宮嫌いは周知のことだ。王宮、国王、貴族、権力、金持ちといった言葉を毛嫌いしている師のことだから、王宮専属の療師への推挙云々の話をすれば難色を示すに決まっている。
「薬草の調合が終わってから話に行こう」
 清々しい朝とは程遠い、どんよりした心を持て余しながら、アイラは使い慣れた道具箱をしっかりと持ち上げた。



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