「リンドウの花を君に」短編

□覚悟をした日
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《ヒルメスが王になる覚悟をした日の話》


* * *


 ちょん、ちょん。
 長衣の袖を引く紅葉みたいに小さな手。
「ねえねえ、ヒルメス」
 名を呼ぶ鈴の音のように高い声。
 ――いつからだろうか。
 最初は疎ましく思っていたそれらを、かけがえないもののように感じるようになったのは。


 齢十を目前に控えたヒルメスは、机いっぱいに広げられた分厚い書物を前にして、政とは何か、国とは何かを懇々切々と説いている宰相の話に耳を傾けている。
 ふいに、開け放たれた窓の外から少女の声が聞こえた気がして書物を追っていた視線を上げると、宰相は話を中断して少年を見た。
「ヒルメス殿下、どうなされました?」
 怪訝そうな宰相の声にヒルメスははっとして顔を上げる。どうしてか、ばつが悪い気がしたヒルメスは、何でもないと首を振って再び書物に目を落とした。
「――国王が強きことこそ、我らがパルス王国の栄光そのものなのです。殿下、殿下もいずれは父王の後を継ぎ、良き王となられるでしょう」
 畏まって言う老齢の宰相に、ヒルメスは歳の割に落ち着いた目を向ける。
「……王が持つべき強さとは、…良き王とは、どういうものだ」
「殿下」
「父上はご立派な国王だと思う。俺も父上のような王になりたいと思う。だが、父上の強さはどこから来るのだ。父上はどうしてあのように強く在れるのだ。国と民のためというのはわかる。だが、俺にとってそれらは遠い存在のように感じるのだ」
 窓の外をぼんやりと眺めて言う王子に静かに宰相は目を伏せる。宰相には物心ついてからずっと王宮で暮らし、市井と民と接したことのないこの王子が不憫に思えた。
 長くパルス王家に仕えてきた宰相は王家の光も闇も知っている。ゆえに王家内にある不穏な動きも察している。今のまま何事もなく、この王子が健やかに成長できることが宰相の願いだった。
「殿下、殿下にはご友人はおられますか」
 王族である自分に友人などいるわけがないと答えかけたヒルメスは、脳裏をよぎった一人の少女の残像に開きかけた口を閉ざす。
 ヒルメスのことを他人ではないと言ったその少女はいつも屈託なく笑い、父王以外に唯一、ヒルメスのことを敬称のひとつも付けずに呼ぶのだ。
 憎たらしいくらい、鬱陶しいくらい、何の穢れも知らない笑顔。
 その笑顔に、いつの間にか自分は感化されようとしていた。
「近頃はバフマン将軍の孫娘殿と懇意になさっているとか」
 どこから得てきた情報なのか、隠していたつもりだった関係を知られていたことにむっとしたヒルメスは、好々爺のような笑みを浮かべた宰相を無言で睨む。
 あの娘はどうかと尋ねてくる宰相に、「あの少女は友人ではない」とヒルメスは口の中で言い返した。
「……友人ではないのだ。あれは、友人などではない」
 自分自身に言い聞かせるようにつぶやく王子に、何か悟った宰相は黙然と頷く。
「そうですか。ですが殿下、国や民という漠然とした対象よりも、ご自身の身近にいる者たちの方が想像しやすいでしょう。己が大切に思う者を守ることが、やがては民や国を守ることにつながるはずだと、某は思います。身近にいる者から疎まれる王は決して国を治めることはできません。まずは身近にいる者を大切にできるお方となられませ」
 威厳の中にも温かみのあるその言葉にヒルメスは頷く。
 己にとって大切なものが何であるかに、ヒルメスはすでに気付きかけていた。
 今はまだ芽吹く前の思いであるけれども、あの少女が友人ではないと思い感じたその瞬間から、ヒルメスの中で少女は特別な存在だった。だからこそ。
 ――君が笑う、この国を守るために王となる。
 何を吹っ切れたような王子の横顔を宰相は静かに見守っていた。


覚悟をした日



【あとがき】
 ヒルメスの中では夢主が「友人」であったことは一度もないんですよ。
 出会った時からずっと特別な存在で、(「特別」の意味に気付くのはずっと後のことだけど)大切に思っていて、夢主のために良き国王になりたいと決意するヒルメスですが……書いていて切なかったです。
 この後すぐにあの火事があって、本編へとつながっていくのかと思うと、涙が。
 強い覚悟ほど、道を違えた時の代償が大きいと思います。
 ヒルメスもそう。途中までは正しかった覚悟が、ある出来事で捻じ曲げられて、ゆがんだものになってしまう。
 でもヒルメスにとっては、その覚悟は生きる意味そのもので、夢主を守りたいという願いでもあるから諦めることができないんです。
 原作小説を読んでいると本当に、ヒルメスの言動ひとつに泣いてしまいます。
 最後にはヒルメスが幸せになれますように願っています。


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