妄想本棚

□内緒話
1ページ/1ページ

【内緒話】


「手、繋いでも宜しいですか?」
 辺りに人の気配がないのを確認して、楊ゼンがねだる。幸い午後の太陽が包み込む廊下には、他に誰も居ない。遅めの昼食を済ませ、食堂から執務室へ向かう途中である。
 楊ゼン本人は気にしないのだが、太公望は二人の仲が人の目につくのを避ける節があり、人前だと共に歩くのさえ数歩分の間を明かしてしまう程だ。
「おぬし…本当に手を繋ぐのが好きだのう」
 事あらば自分に触れたがる青年に太公望は少々呆れながらも、ちらちらと辺りに目をやる。
「あなたの手だから――好きなのですよ」
 誰とでもという訳ではないと言外に伝えて、楊ゼンは小さな手を捕まえた。
「太公望師叔は…お好きではありませんか?」
 少し冷たいけれどやわらかな手。その華奢な指をそっと撫でて問う。
「――嫌いだ」
「え」
 ぼそりと答える声に、撫でていた動きが止まり、表情が固まる。
「…お嫌いでしたか」
「嫌いだ。この手は冷たくて…触れたものを凍えさせてしまう」
 自分で自分を突き放すような口調。『嫌い』が指すのは『繋ぐ事』ではなく、『太公望自身の手』という事らしい。
 楊ゼンに安堵よりも困惑が訪れる。
「前にも言いましたが、僕はあなたの手のやわらかさか好きなのです。あなたが冷たさを厭うのでしたら――僕があたためます」
 心から思う事だというのにいかにも安っぽい台詞のようで、それが楊ゼンにはもどかしかった。
「ああ…すまぬ、困らせてしまったようだのう」
 目を閉じて僅かに背を向け――表情を隠してしまった太公望の手を少し強く握り込む。
「ひんやりとして気持ち良い…と言ったら困りますか?」
 敢えて明るい口調で楊ゼンが言うと、くすくすと笑いながら太公望が顔を向けた。
「困らない」
 若干ではあるが、言葉とは逆に困ったような笑顔だったけれども。
「冷たい手で得をするのは、これで三つ目だ」
「三つ目…ですか?」
 首を傾げる。
「一つはひんやりして気持ち良いと言って貰える事」
 たった今、楊ゼンが言った言葉を太公望の唇がなぞる。
「一つはこうして…」
「…っ!」
 楊ゼンの耳の後ろ側にひやりとした感触が訪れる。繋いでいた手を離し、太公望の指が一撫でして行ったのだ。
「不意打ちができる」
「もう一つは?」
 苦笑しながらもぞくりとした感覚に、できれば他の者にはしてほしくないと頭の片隅で楊ゼンの独占欲が鎌首を擡げる。 何度目かの問いを投げ掛けると、小さな手がやや躊躇いながらも指先を大きな手に寄せた。
「もう一つは――内緒」
「内緒…ですか」
 悪戯っぽく笑うと、太公望は繋いでいない手――左の義手で、楊ゼンの髪を引いた。
「内緒だ」
 そう言うと太公望は透明感のある碧い瞳を細めて、楊ゼンをじっと見つめた。
 その表情は何かを言いたそうに――楊ゼンの菫色の双眸に映り込む。
 深く澄んだ眼差しなのに、それはどこか陰りを帯びていて。
「…――」
「…!」
 楊ゼンの端整な唇が太公望の唇にそっと触れて、ごく軽く吸うとやわらかな表面を舐めて離れて行った。
「――なっ…! 何をするダアホが!!」
 薄目だったとはいえ、油断している時に至近距離で――それこそ焦点が合わなくなる程の間近で稀有な美貌を見てしまい、太公望は慌てふためいた。
 否、それよりもそんな事よりも、真っ昼間の誰が通るとも知れない廊下で、あろう事か接吻などをこの青年は…!
「不意打ちにも程があるではないか!」
 耳まで真っ赤になって喚く。
「あれ? 今のはおねだりをしてくれたのでは…」
「誰が誰に何をねだる!?」
「あなたが僕にキスのおねだり」
 仙界屈指の美丈夫が、きりりとした真顔で答える。
「するかダアホ!」
「手を繋ぐのと同じ位にキスも好きなのですが」
 からかいと真実を同等に織り込んで楊ゼンが笑う。
「知るか」
 揶揄されるのが苦手な太公望はそっぽを向き、手を振り解く。


「師叔」
――その払った手が再び捕らえられ、背後から抱き竦められた。
「いい加減に――!」
 強い力で押さえ込まれた訳でもないのに、太公望は身動きが取れない。
「ねえ…師叔」
 指が深く絡められる。
「内緒にしたい事って、本当は誰かに知って欲しい事――だったりしませんか…?」
 抗えない太公望の耳元に、褥で囁かれるような低い蜜色の声が響いた。
「――何…?」
「それさえも『内緒』、ですか?」
 束縛は、その言葉と共に解かれる。楊ゼンの声は普段通りのものに戻っていた。


「…ノーコメント」
「やっぱり」
 もう一度楊ゼンが苦笑いを浮かべ、物足りなさそうな視線を送って寄越す。
「そろそろ――武王たちが部屋に着く頃だな」
 すたすたと、何事も無かった様に太公望は歩き出す。――耳の端だけはまだ、少し赤いままで。


 その後ろ姿を一呼吸の間だけ、楊ゼンは黙って見つめて――小さくちいさく、自分にすら聞こえるかどうかの声で呟いた。
「――だから…内緒」
 眩しい陽射しに半眼を閉じる。太公望が目を細めたのは、陽光のせいではないと思うのだが。
「『言えない』と、『言わない』と…」
 陽光を避けるように顔を傾けると、長く艶やかな髪がその整った面を覆った。僅かに見える口元は――太公望に触れたばかりの唇が自嘲気味な角度に歪んでいた。
「罪深いのは、どちらでしょうね」
 低く昏く、冷たい声は太公望が耳にした事のない無機的とも感じられるものだった。


「一緒に行きますよ」
 もう一つ息をついて、まやかしの蒼い髪を掻き上げると――楊ゼンのはつれない想い人の後を追った。


〈了〉

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ