妄想本棚

□戻れない明日
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 珍しいものを見た。
 こんなに近くにありながらもおそらく初めて見たのは、見落としていたのではなく、見つけられなかったのだろう。


【戻れない明日】


「……ぜ…ん…?」
 余りよいとはいえない夢の果てに太公望は目覚めた。
 余りよいとはいえない、と何とも中途半端なのは、目が覚めてほっとしている事や、記憶の隅の更に端の辺りに不快な苦みが残っているからだ。
 むくりと起きると強く喉の渇きを覚え、もそもそと居心地の良い寝台から抜け出した。
 月のない夜、室内は闇に包まれていたが、慣れた部屋だから構わず水差しを求めて移動する。
 「蜜を溶かした水ですからね」と床につく前にこの部屋の主が言っていた通り、椀に注いだ水を飲むとほんのりと甘かった。
「もうちっと濃い目にしてくれても良かろうに…」
 ひとりごちて、ちょっと不満そうな表情を作って飲み干す。口当たりの優しい水は、夕刻に軽い痛みを覚えていた喉に刺激を与えることもなく、体を流れていく。
 否、喉の痛みそのものが失せたのか。
「さすが、天才サマの作る薬はよく効くのう」
 いつもより数刻早く寝台に追い立てられ(しかも自分のではない)、風邪は引きはじめが肝心なのだからと手製の薬湯(あなた用に甘くしてありますからと言われたが、結構苦味もあった。…飲めない程ではないけれど)を飲まされ、現在に至る。
 喉の痛みと共に感じていた体のだるさも抜けており、随分と楽になっている。早くに就寝し、よく眠れたからか、夜中だというのに眠る気が失せてしまった。
 睡眠と安眠をこよなく愛する自分に面目ないとも思ったが、冴えてしまったものは仕方がない。
 それに自分の事だ、ぬくい布団に入ればじき瞼も重くなるだろう。
 うん、それでいい。
 そう決める頃には、大して気にも留めていなかったが、どんな夢を見ていたのか、きれいさっぱりと忘れていた。


 室内の暗さに目が慣れてきたのだろう。寝台に戻る時には、うっすらとだが部屋の様子が見てとれるようになっていた。
 その寝台には。
 部屋の主…楊ゼンが背を向けて規則正しい寝息を立てていた。
 どんな寝顔をしているか、不意に興味が湧いてきた。
 共寝をする場合は、常に先に眠りに就くのは自分で、先に起きて身支度を整えているのは必ず楊ゼンである。
 いつもいつも、青年は自分の寝顔を満足そうに眺めては、いつにも増して可愛かったとかもう少し見ていたかったのにとか、ご丁寧に感想を述べてくる。
 この優美を絵に書いたような男が口を開けて、涎なんぞを流していたら面白いのに、と期待しつつ覗き込む。
 が。
 期待は、一瞬で儚くも崩れ落ちた。
 完璧な目鼻立ちは睡眠中でもやはり完璧で、一つひとつ至上の造形を成したパーツが絶妙の位置に配置されている。
 長く艶やかな髪が、それら全てを更に印象的に際立たせるように流れている。
 創造の神が心血を注いで作り上げ、この出来栄えにはさぞ満足したことであろう。
 長い睫毛は印象的な菫色の瞳を隠しているものの彫りの深さを示し、目元から頬、そして高く通った鼻梁へと見事なラインを描いている。
 やや薄く形のよい唇が僅かに開き、寝息が聞こえなければ作り物ではないかと間違いなく疑いそうな程、美しく整った顔だった。
(しかも悔しい事に、その美しさにしばらく見とれてしまった)
 つまらん、と口の中で呟き、些か赤らんだ頬を隠すように寝顔から顔を背ける。

 そういえば――。
 自分はこの青年の後ろ姿を殆ど見たことがない。
 正面や横顔は知っている。背の高さだとか、肩幅の広さ、流れるような蒼い髪の長さも知っている。
 きっと、誰よりも知っている…と思う。
 けれど、後ろ姿は。
 自分の補佐に徹底している青年は、隣に立つ事はあっても、背を向けて前に憚る事はない。
 肌の匂いや艶を多分に含んだ眼差しさえも知っているのに。

 否、知っているようで知らない事も随分あるのだ。
 冬の月が如く銀(しろがね)色に輝く髪と、滴る血の色をした瞳――。
 楊ゼンの出自と、それに纏わる秘密や苦悩を知ったのは、つい先日の事。
 のた打ち回る程の痛みを抱え、打ちのめされた戦の中でだった。


 ある時期から、彼らしくもなく言葉を選びあぐねている様子や、彼から始めた会話の流れをそれとなく反らす事が幾度となくあり、不審を覚えた。
 既に不信など感じるべくもなく、何かしらの秘め事を打ち明けようとしている事を太公望は察した。それが自分の小さな手に収まるような内容ではない事も。
 気付いただけで、踏み込んで問う事は出来なかったし、するべきではないと判断した。
 秘密は隠されているからこそ秘密であり、周知されればただの事実になる。隠すにはそれ相応の理由があるからで、第三者が興味本意で暴いてよいものではない。
 秘められているからこそ保たれている事態がある。当事者自身が話す事を躊躇っているなら、今はその時期ではないのだと――。
 いつか…きっと遠からず、楊ゼンが自らの言葉で話す日が来る、そしてそれがどんな告白だろうと彼が彼である事に変わりはないから、怖れる事はない――そう思っていた。

 けれど――秘密は最悪の形をもって暴かれた。
 それがどれだけ楊ゼンを苦しめ傷付けていた事か――。
 他に採れる道がありはしなかったか。
 自分がしたり顔でとった術は、最も愚かな選択ではなかったのか。
 もっと早く――無理にでも聞き出していれば――。
 ぎり…、と歯噛みをし、己の手を睨み――大きく息を吐く。
 違う。
 そんな考えをする方が傲慢極まりない。自分一人の行動で、全てを意のままに動かせる筈もないのだ。
 思い上がりも甚だしい。
 知っていたとして、何ができた?
 楊ゼンにとって師であり父に等しかった存在を、敵対してしまった金ゴウの教主であり実父を、どうやって助けたとられたというのだ――あの状況、あのタイミングで。
 今こうして、青年と並んで息をしている事さえも、限りなく奇跡に近いのに。
 けれど……。
 自分など今ここに居なくても構わないから――できる事ならば、せめてこの不器用な青年がぼろぼろに傷付く道は避けて通りたかった。
 傷付くのなら、痛みを負うのなら、自分がそうなればよかったのに――。
 その想いこそが思い上がりなのだとしても。
 そしてきっと太公望のこの独白を聞いたなら、楊ゼンはあなたこそ辛かったでしょう、と言うのだ。

 過ぎてしまった事と割り切るには、負った傷はあまりに深く大きく、そしてそれを受けた者達も多い。
 戦とはどんな戦争であれ犠牲が伴うのだが、本当に哀しみの大きすぎる戦だった。


 寝台にぺたりと座り込んで、楊ゼンの背中を眺める。
 いつも自分を守ろうとするかのように、或いはすがり付く幼子のように、腕を回して眠る青年。
 不思議な印象をもって見えるのは、その来歴ゆえか。
 全く、目が離せぬではないか――。
 小さな吐息と共に青年が軽く身じろぎをすると、さらりと髪が揺れて首筋が露になった。
 何気なく目を向けたその白い首筋から、太公望は目が離せなくなった。
 肌の白さは夜目にも明らかで、けれど女性のように柔らかな印象は全く感じられない。厳しい修業を積み重ねて作り上げた男性らしい骨格を容易に感じさせる。
 自分の細いだけの首に手をやると、睦み合う時の楊ゼンの愛撫が脳裏をよぎり、どきりとする。

 青年が自分にするのと同じように、そっと唇でその白い首筋に触れてみると……。
 肌のぬくもりと共に、ふわりと馴染んだ青年の香りが鼻腔をくすぐる。
 触れたのはごく一瞬だというのに、まるでしなやかな腕と胸にやんわりと包まれたかのような錯覚に陥った。それでいて気が遠くなる感覚は目眩のようですらあるが、そう呼ぶには余りに心地好く、そして苦しい。
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