妄想本棚

□ユキノカ
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吐く息が白い。
山も森も白く覆われており、湖は僅かな透明度を残し全てのものを拒むように凍り付いている。
月夜でもなく、況してや昼日中だというのに、ひどく色彩に欠けた世界。
モノクロの景色の中で際立って鮮やかな蒼く長い髪を、冷たい風が容赦なく嬲っていく。
きん、と冴え渡った空気は背筋が伸びるようで、実は嫌いではない。
「多分あの人は、好きじゃないだろうな」
周から大きく離れ、どこの国ともつかない北の果ての山村は、冬に支配されていた。


【ユキノカ】


「ばうあう!」
雪と競うかのように、じゃれながら天を駈けるその姿は真っ白で、殆ど普通の犬と変わらない。
否、普通の犬は天を駈けるなどできはしないが。
「哮天犬、そろそろ帰ろう」
大きく弧を描きながら、それでも名残惜しそうに名を喚ぶ主の元へと哮天犬は空を滑るように降りてくる。
音もなく雪原に足が着くと、勢いよく主の胸元へ飛び込む。
雪も好きだが、それ以上にこの類い稀な美しさを持ち力と知性に溢れた主の事が大好きだと、行動で示したいのだろう。
「もう少し遊びたかったかい?」
主の問いにくぅんと鼻を鳴らすと、形のよい大きな手が哮天犬の全身をさすった。
「また来よう。約束するよ」
「ばうあう!」
嬉しさを体全体で表すように大きく返事をする。
真っ直ぐに自分を見つめる、同じ色の瞳をした哮天犬の頭を青年はやさしく撫でた。
「帰ろう。あの人が居る所へ」


「道士楊ゼン、只今戻りました」
「うむ、ご苦労」
城の執務室で恭しく礼をすると、返ってきたのは軍師の声のみだった。
その声さえ聴ければ、楊ゼンとしては他はどうでもいいのだが、国を司る者の声がしない理由を形だけ訊いてみる。
「武王はどちらに?」
「立て続けに欠伸をするから、旦をお守りに追い出してやった」
軍師はつまらなそうに大きな欠伸をし、わしも行けばよかった、と嘯いた。
「気分転換も兼ねて城下の視察ですか」
武王は王としての気質を伺わせるが、勉強不足はどうしても否めない。
かと云って王に必要な知識はただ詰め込めば良いという類いのものではないから、本人が望んで学べる環境が必要となる。
城下は武王にとっては慣れ親しんだ場所であり、民の生活の現場であり、政(まつりごと)の成果がダイレクトに現れる生きた教科書だ。
一方、旦は稀にみる極めて優れた為政者だ。
臣にも己にも厳しく民に公平である。
敢えて難点を挙げるならばその優秀さが為に忙殺され、城に籠りがちになる事だろう。
それを本人が誰より自覚しているからこそ、多少の無理をおしてでも、城下へ赴き民の生活を視察する。
二人にとって、城下は学舎も同然なのだ(武王はゆめにもそう思わなくても)。
「城下では丼村屋のアンマンが並ぶ頃かのう」
ぶつぶつと嘆きとも願望ともつかない呟きを軍師がこぼす。
「僕の帰りを待っていて下さったのでしょう?」
ダアホと返されるだろう事を見越して、青年が問うと、意外な返事がかえった。
「まあ、そんなところだ」
意外すぎて青年が反応を示せずにいると、少年の形をした軍師は大き過ぎる椅子から立ち上がった。
「待っておったよ、楊ゼン」
「太公望師叔…!」
目の前でにこやかに笑う太公望に、楊ゼンは感極まった。
いつも素っ気ない態度をとるけれど、それはやはり照れ隠しで、本当は楊ゼンの不在をを哀しみ、こうして待ち焦がれていてくれる…!
「のう、楊ゼン」
細い腕が、楊ゼンにすっと伸ばされる。
「師叔…」
ちょっと涙目になりながら楊ゼンは腕を広げた。
そして熱い抱擁を――交わす事はなかった。
「土産」
「…は?」
「み・や・げ。おぬしはマメだからあるのだろう、土産」
確かに楊ゼンは仙界に顔を出すだけでも、毎回のように太公望が喜びそうなものを見繕ってくる。
そう、今日も然り。
ほれ早く、と腕を伸ばし小さな手を楊ゼンの目の前に広げるかの人は、やはり策士だった。
否、今のは太公望の策でも何でもなく、楊ゼンが彼の言葉に一方的に妄想のスパイスを盛大に振り掛けただけの一幕だ。
「…はい、ありますよ」
己を情けなく思いながらも、土産をねだる姿もやっぱりかわいいなと思う楊ゼンは、苦笑しながらやや小振りな包みを取り出した。
「干し柿です」
「もうそんな季節か」
「ここよりずっと北の村で見かけました」
包みを開けて太公望に一つ手渡すと、早速かぶりついた。
「うむ、甘露かんろ」
「手間を惜しまず作ったもののようですね」
手間と時間を惜しまずに作り上げたものは、その作り手を裏切らない。
きっと、いつの世でも。
「うむうむ、甘くて美味い」
甘党の少年はたちまち三つ四つぺろりと平らげ、指先に付いた糖まで舐めている。
「そんなに沢山を一度に召し上がっては体が冷えますよ」
「そんなのは一度に食わせない為の作り…ばな…っくしょん!」
最後まで言い終える前に盛大なくしゃみを一つ、太公望が披露した。
「温かいものを淹れましょう」
その小さな肩に己の肩布を羽織らせ、執務室に備え付けの茶器一式を楊ゼンが用意する。
「――どうぞ」
甘い香りのする茶が淹れられた湯飲みを太公望に手渡す。
太公望がそれを一口啜ると、思っていた以上に躯が冷えていた事に気付く。
一息付いた華奢な背中を楊ゼンが包み込むように抱き締めた。
「寒くないですか?」
「くしゃみ一つで大袈裟な奴め」
軽口を叩いてはいるが、しなやかな腕の中の小柄な躯は、硬く強張っていた。
国と民の行く末を背負った彼は、常に気を張りつめている。
先に立つ者としての姿勢と気概で、それはまるでぴんと張った弦のようだ。
沢山を赦し合う事となった青年が触れた瞬間も、少年はびくりと反応する。
「――あなたはご自分に無頓着だから、こちらが大袈裟にならざるを得ないのですよ」
できる限りやさしく、ふわりとくるむように抱き締めると、緊張していた太公望の華奢な躯がゆるゆると強張りを解いていく。
詰めていた息をゆっくりと吐き出し、がちがちになっていた腕や肩から余計な力が抜けていくのが解る。
その瞬間が、楊ゼンは好きだった。
それは、他の誰にも見せない彼の姿を独り占めできているようで。
(更に言えば、気を張っている彼の凛とした表情も好きだし、いつ切れるともしれない張りつめた弦のような危うさにさえ、惹かれてやまない程だ)
頬をやや癖のある黒髪に埋めると、太公望が呟いた。
「おぬしは…冬、みたいだ」
「すみません――あなたをあたためるつもりが、冷やしてしまいましたか?」
「そうではない」
慌てて離れて行こうとする青年の袖口を、咄嗟に少年は掴んでいた。
「そうではなく――」
青年の腕の中は余りにも心地がよく、つい自分のとった反応にきまりが悪そうに太公望は続けた。
「雪の匂いがする」
「雪に匂いがありますか?」
しばし首を傾げて、少年は言葉を探した。
「冷たくて、どこか研ぎ澄まされたような…冬の匂い」
「冬の、匂い?」
こくりと太公望は頷く。
「薪をくべる暖炉の匂い。乾いた冷たい風の匂い。春を待ちわびる時間の匂い。――全部、冬の匂いだ」
干し草、糸紡ぎ、湯沸かし鍋、昔話。
おそらくそれは、太公望が呂望と呼ばれていた頃の記憶がそう感じさせるのだろう。
暗く長い冬――しかしそれは、見方を変えれば疲れた体を癒す時間でもあり、次の春に期待し胸膨らませる時間でもある。
小さな住まいの中で身を寄せあい、暖を分かち合う。
賑やかでも煌びやかでもないけれど、大切な者たちと過ごす素朴でいとおしい時間。
「おぬしは、雪の匂いがするよ」
「雪の匂いは…あなたを凍えさせはしませんか?」
寒がりの少年に、青年が恐るおそる聞いてみる。
「寒いのは苦手だが…冬の匂いは――懐かしくて好きだよ」
その答えに安堵の吐息が洩れる。
こんな例え話にでさえ、青年は一喜一憂する程にこの少年に焦がれていた。
きっと楊ゼンが自覚する以上に思い詰めた表情をしていたのだろう。
しなやかな腕を、安心させるように小さな手が軽くたたく。
「雪の中は意外とあたたかいのだぞ」
かまくらを知っているかと太公望が問う。
その気遣いがじわりと沁みて、楊ゼンは少年を抱く腕に愛しさと嬉しさを込めてほんの少しだけ強く抱き込んだ。
――同時に自分の弱さを再確認しながら。
「ねえ、師叔。僕が雪なら、あなたは――」
「春の桃と言ったら笑うぞ?」
「…笑って下さい」
「ダアホが」
互いが顔を見合わせると、どちらともなくくすくすと笑いが込み上げてきた。


「丼村屋のアンマン、買って来たぜー!」
勢いよく扉が開き、武王がアンマンの包みをいくつも抱えていた。
「おお! よくやったぞ武王!!」
直前まで抱き合っていたとは微塵も見せず、太公望が包みを一つ強奪していた。
「お茶を淹れましょう」
楊ゼンもまた、太公望に合わせて何事もなかった振りをした。
「アンマンに合わせて甘〜い茶を頼む」
「そこは普通濃い目の苦い茶じゃねーか?」
「わしは甘〜いのがよい」
「仰せの通りに」
武王からやや遅れて入室した丹は、手元の書き付けを厳しい目で睨んでいる。
「アンマンは私費ですよ、小兄さま」
「何回も言うなよ」
「全く、『経費でおとす』なんて言葉、どこで覚えたんだか…」
「一回言ってみたかったんだって」
「一国の王が軽々しい発言をするのはいかがなものかと」
「『発』だけにな!」
呵々と笑う兄に弟のハリセンが発動し、場内に悲鳴が響き渡る…。
「あやつらは漫才コンビで売り出したら間違いなく当たるのう」
アンマンを頬張りながら軍師が苦笑いをする。
「何にせよ、名コンビなのは間違いありませんね」
甘味の強い茶に蜜を添えて差し出すのは、軍師の片腕と呼ばれる美貌の青年。
午後の陽射しは穏やかで、冬の訪れ――雪の香はまだもう少し、先の事。



〈了〉
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