妄想本棚

□それだけ
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【それだけ】


「今なら、思い出にできるかもしれない」
やや癖のある黒髪を風が撫でると、少年がぽつりと呟いた。
それは随分と唐突で、不釣り合いな言葉だった。
思い出という過去の出来事を語るには、少年はまだ若過ぎると彼を知らない者は思うだろう。
少年期とは未来への可能性を数え切れない程に持ち、過去への執着など老人のそれとは比べようもない。思い返せば誰にでもその時間はあるのだが、通り過ぎればほんの一瞬の事。
見た目は間違いなく少年としか言い様のない彼の本質を知る者は――少なくても、隣に立つ青年にとっては、看過するには胸が苦しくなるような物言いだった。
「思い出に、できるのですか?」
「きっと、な」
青年の問いに、どこか上の空といった体(てい)で少年は答えた。
「思い出にしたら、軽くなりますか?」
「軽くも重くもならないよ。ただ、引き出しの中身が一つ増えるだけだ」
「引き出しの中は、たくさん詰まっているのですか?」
「一つや二つではないな。無造作に入れたら、見付けられなくなってしまうか…?」
少年は青年に問い返したというより、自問自答のようだった。
いつもは強い意志が宿る碧の眼差しが、僅かにだが陰りを帯びている。
「そもそも思い出など、感傷が体裁を繕っただけか」
「否…、自分が思い出という枠に嵌め込みたくなかったのか…」
少年の発した声は殆ど独り言で、青年の耳に届いている事は大した問題ではないらしい。
「思い出…か」


思い出になるであろう出来事が何か、少年は語らなかった。
青年も問わなかった。
言葉という形にする事ではないと、どちらもが思ったのだ。
青年は、おそらく自分が最も少年に近い場所に居るという自負があったし、実際に長い時間を共にしていた。
だからこそ、彼の全てを知り尽くしている等と妄言を吐く事はできなかった。
こんなに深い人を他に知らないし、誰よりも彼を知っている。
けれどそれは、全てを理解している事とイコールにはならない。
言葉にしなくても通じる事は確かにある。
やわらかな肌のぬくもりと匂い、乱れた息遣い、本人すら気付いていないであろう小さな仕種が示すもの。
言葉にしなくては解らない事も、いくらでもある。
触れる事のできない心の傷、繋がり交わる躯の痛みと快楽、今この瞬間の感情さえ正しく察しているとは限らない。
その幾つもの矛盾とも云える要素があるからこそ、隣に居たいと願う。
知っても知っても、もっと知りたくて、いくつもの彼の横顔を見てきたけれど、――きっと、いつまでも『知りたい』と焦がれ求めるのだろう。
明日の少年を、今日の青年が知る事はできないのだから。

もしも青年が少年を『思い出にする』、或いは少年が青年の『思い出になる』としたら――

「僕は、思い出は持ちません」
気まぐれな風が、蒼い髪をさらさらとなびかせた。
「思い出として片付けてしまえるなら、その瞬間に僕は僕ではなくなっているから」
自分の瞳が、褪めた色をしているだろう事を青年はぼんやりと覚った。
未来の過去と、過去の未来は、手を伸ばせば簡単に手に入りそうな甘い――甘い毒のようで。
指先が触れたら毒と知って尚、飲み干してしまいそうな程。

思い出にしてしまえば、やたらと自分に都合のいいようにしてしまうだろう。
毒を舐めれば『現在』に戻れなくなる。

「もっとも、僕の価値観を、あなたに強いるつもりはありませんが」
「否――そういうのも、ありだろう」

青年を見上げる少年の瞳は、いつものように深く澄んでおり、見るものを安心させる笑みを浮かべていた。
まだ少し、褪めた眼をしている自覚があった青年は、そっと目を伏せ――一つ息をつく。
「過去も未来も、まずは現在(いま)をなんとかさせてからですね」
菫の瞳は、穏やかな色でに碧の瞳に語りかけた。
「戻るか」
「ええ、僕達が今すべき事をしに…」


先にくるりと背を向け立ち去ったのは少年だった。
その華奢な背中に青年は小さく呟く。
「僕は――あなたの居ない世界には……戻りたくない」
それ以上でもそれ以下でもない、ただ一つの望み。
一つだけのこの気持ちはここ(現在)にしかなく、少年に伝える必要もない。
青年が自分に誓い、貫き通せばいい、それだけのの話なのだ。





〈了〉
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