妄想本棚

□瞬き
1ページ/2ページ

「ヨ」
「ウ」
「ゼ」
「ン」
瞬きをする度に、シーンが変わる。
穏やかな春の小路、石ころだらけの荒れた平原、焼き払われた村、星の流れ落ちる夜空。
「ヨウ」
「ゼン」
きらびやかで空虚な歪んだ街、古めかしいけれど居心地は悪くない城の中。
「楊…ゼン」
海より深い空に浮かぶ山――。
別にどこでも構わなかった。
あの人の声がするから。
あの人の声が届く場所ならば。
あの人が僕を呼んでくれるなら、嫌な場所など世界のどこにもない。
こんな夢の中でさえ、あの人の気配に触れていたかった。



【瞬き】



「これ、楊ゼン!」
やや乱暴に髪を引っ張られて目を開けた。
いちばん大切な人がそこに居た。
「ああ、太公望師叔…」
明るい日差しの元が、この人には似合う。
「全く、わしを差し置いて昼寝など…」
呆れたようでいて、どこか笑い出しそうな顔。

ぱち。

「楊ゼン、どうした…?」
夜着をまとい、薄暗い部屋で心配そうな表情を僕に見せる師叔がいた。
陽光の元では見えない翳りが、とろりと滲む色香のようで息を飲む。
「熱でもあるのではないか?」
そっと額に触れた小さなひんやりとした手のひら。
その冷たさに(知ってはいたけれど)少しだけ驚いた。

ぱち。

「のう、楊ゼン」
振り向いた彼は、これまでに見せた事のない、透明な表情をしていた。
「わしは、――赦されぬのだろうな…。随分と沢山、死なせてしまったよ」
一面の瓦礫に砂ぼこりが煙る中で、目を伏せていた。
この光景から目を背ける為ではなく、目に焼き付ける為に。
「師叔…」
掛ける言葉を探そうとしたけれど、都合のいいものがそうそう転がっている訳もなく――心の奥に絡まった言葉を手探りで掴まえる。
ぎゅっと、目を閉じて。

ぱち。

「こぉんのダアホがー!」

ぱち。

「この書簡を今日中にまとめてくれんかのう?」

ぱち。

「桃ー…もーもー…」

ぱち。

「おぬしは気が利くのう。助かるよ。」

ぱち。

「時間がいくらあっても足りん」

ぱち。

「あ…ぁん、楊…っ!」

ぱち。はっ、勿体な…!

「糖衣かシロップでなければ飲まんぞ」

ぱち。

「腹が減っては戦はできぬよ」


飄々とした顔も、真剣な眼差しも、甘く乱れた表情も。
焦がれてやまない、碧の瞳を持つ人。
いくつもの表情を見てきたけれど、どの顔も僕を魅了してしまうのだ。
哀しみに包まれた顔は、胸を刺すような痛みを伴って。

ぱち。

そこは全く知らない場所だった。
どこにでもありそうな野原なのに、吹く風が、照らす陽射しが、生い茂る草が、僕の知るそれらと少しずつ何かが違う。
そしてそこに見える人影は――見知らぬ人物だった。
黒い革に独特な装飾が施された衣裳。
やや癖のある黒髪、華奢な躯、白い肌、生身の左腕。
碧の瞳。
「あなたは――」
少年の形をしたその人は、僕の大切な人に似ていて、けれど全くの別人だった。
否、別人というには瓜二つで――彼の名で呼ぶには異質過ぎた。
「――誰ですか?」
その少年は一瞥をくれると、口元を歪ませ嗤った。
「――」
ノイズだらけの声は聞き取れない。
冷ややかな碧はあの人にはあり得ない眼差しで、それこそが決定的にこの少年とあの人の差だった。
「太公望師叔…」
だから自分の口があの人の名前を勝手に紡いだのは、不本意としか言い様がなかった。
僕の声に黒い少年は驚き、ほんの一瞬だけ表情を変えた。
あの人と同じ碧の眼差しで、哀しみに包まれた顔に――心臓を鷲掴みにされたかのように、僕は胸が痛くなった。
「――…。…――…、…楊ゼ…――」
ノイズ混じりの声はやはり聞き取りづらかったが、二言三言の間に僕の名が含まれていた。
「あなたは――」
何を訊きたいか判らないままに少年にもう一度声をかけた瞬間、音もなくそれは始まった。
否、終わりを告げた。
風がやみ、陽射しが陰り、景色が色褪せて崩れていく。
夢の終わりだった。
黒い少年にも崩壊は及び、歪んでひび割れ始めた。
あの碧の瞳に何が映っていただろう。
黒い少年が何者であるか、あの人の何を指すかも判らなかったけれど――夢であっても、あの人の姿を模したものでも、崩れゆくのは見たくないと、目を閉じた。



「これ!これ楊ゼン!」
乱暴に髪を引っ張られて目を開けた。
いちばん――何より大切な人がそこに居た。
「ああ、太公望師叔…」
明るい日差しの元が、やはりこの人には似合う。
「全く、わしを差し置いて昼寝など…しかも二度寝なんぞ贅沢しおって」
呆れたようでいて、どこか笑い出しそうな顔に既視感を覚えた。
「太公望師叔…」
腕を伸ばして華奢な躯を抱き寄せ――目を閉じてみる。
「ダッ、ダアホ! 離さんか!」
そっと目を開けると、じたばたと暴れる師叔と目が合った。
「師叔…」
碧の眼差しがいつもと変わらない事に心の底から安堵する。
「なんぞ怖い夢でも見たか?」
「え? …あれ?」
安堵した瞬間に、胸に巣食っていた不安が何物だったのか、きれいさっぱり消え去っていた。
同時に、夢の内容も。
「楊ゼン」
訝しむ僕の肩を、小さな手がポンとたたく。
「昼寝及び二度寝の分、遠慮なく存分に働け」
にこやかな笑顔で鉄より重い命令が下る。
「はい…」
どんな命令でも、太公望師叔からの命令なら、いいか。
あなたの声の届く場所に居られるならば。
あなたの居る世界ならば。





〈了〉
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ